序 ページ1
白い満月が街を照らしていた。夜であろうと人が行き交い賑わう横浜の街、その路地裏を一人の男が走っていた。
黒いスーツに身を包んだその男は、まるで何かから逃げるようにして走る。流れる汗を拭う事もせず、時折後ろを振り返っては「くそっ！」と悪態を吐き出して走り続けた。
黒いネクタイを道中で緩めて投げ捨てる。地面に落ちた黒いネクタイの上を、その布地より黒い"何か"が通って行った。
それはまるで生き物のようにうねりながら男の通った道をなぞるように追っていく。
再度後ろを振り返った男がその黒い何かを視認した瞬間、男の喉がヒュッと音を鳴らした。
「もう追って来たのかよ…っ！」
男の顔が青くなる。流れる汗の量が増え、心拍がどんどんと高くなる。
駆ける足に力を込め、男は疲労の溜まる体に鞭打って速度を上げた。
男は逃げなければいけなかった。もし捕まれば命は無い。それ程の事を男はしてしまったのだ。
充分理解しているからこそ分かる、あの黒いものが自分を追う何かである事を。
「っ…！」
嗚呼、逃げ切りたいと願う心がぐしゃりと音を立てて潰れた気がした。男が走った先に現れたのは、煉瓦作りの高い壁だ。
そう、行き止まり。
此処まで逃げるのに様々な経路を走り抜けてきたが、それももう終わりだ。他に逃げる道は無い。
男の頭がこの現状を打破しようとぐるぐると回る中、小さな足音を男の耳が捉え始めた。
『逃走劇はもう終いか』
低く静かな声が背後から聞こえる。男が振り返る間も無く、軽い衝撃が両足を襲った。
「ぎゃあぁああぁあああぁっ！？」
ぐらりとよろめく身体。神経を焼くような激痛。感覚の無い両足。倒れた身体が地面にぶつかると同時に、男の喉からは割れんばかりの悲鳴が絞り出された。
両足を膝から斬り落とされた男は、傷口から溢れる血液を押さえるように足に手を添える。脂汗が流れ霞む視界の中に、真っ白な
「し、しが、志賀さ……っ」
痛みから溢れる唾液と共に吐き出される声が、長外套を撫でる風と共に流れていく。
視界に映る黒い革靴から上へと目を向けるその刹那、風を切る音が耳朶を打った。
『嗚呼、可哀想に…。御前は優秀な部下だったと云うのに……』
悲しげに見下ろす青年の足元。力無く横たわる身体の隣を、切断された頭部が静かに転がっていった。
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作者名：九龍 -くーろん- | 作成日時：2023年1月10日 1時
