標(kn) ページ11
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名前を呼ばれる。それが酷く新鮮に感じるのは、彼の声がほんの少しだけ、迷子のような軟らかさを含んでいたからだと思う。
「おるか。」
「いるよ。」
「……ならええ。」
光を放つような黄金の髪。同じ色の睫毛に縁取られた空の色がガーゼと包帯の下に隠されているのは、先の大戦のせいだった。眼球には傷一つないものの、爆発による熱風で瞼に火傷を負ったのだと医者は言った。いくら軽傷だからといって、目が見えないんじゃ動きようもない。しばらくの間、医務室のベッドを寝床にする彼の話し相手に任命されたのは私だった。
いつものように近況報告、業務の確認、夕食のメニュー、街の様子から世間話へと移り変わっていく話題。朝の涼やかな光が、いつの間にか昼を知らせるように強くなる頃。
「A、」
「なあに。」
帰り道を見失ってしまったような声に釣られて、言葉の端が丸くなる。ここしばらくのコネシマが醸し出す不安定さは新鮮で、心の真ん中に直に触れられるような感覚。ふくふくと丸い手を潰さないように柔く握る蜃気楼を瞬きの裏に見た。ふと、檸檬の匂いが恋しくなる。手持ち無沙汰に無骨な指を遊ばせていた男は、諦めたように、覚悟を決めたように姿勢を正して、そして少しだけ俯いた。何かを言おうとした口許が揺れている。
「…いや、なんもないわ。」
ベッドサイドに置かれたガラス製の水差しが汗をかいていた。半分開かれた窓から爽やかな風が入り込んで廊下へ抜けて行く。網膜を焼くほどに光る植物の匂い。気付けば夏が始まろうとしていた。包帯の下に隠れている両の眼と見紛うばかりに、空の色は澄んでいる。
コネシマは、いつだって手を伸ばすようなことはしなかった。いつでも声のする方に私がいると信じて疑わなかった。彼なりの矜恃かもしれないそれは、私の方を向いた鼻筋は、当然のように寄せられた信頼だった。言葉もなしに、自らの鼓動が響くほどただ静かに彼は居た。その静寂にどんな名前が着くのか、まだ私は知らないけれど。
名前を呼ばれる。宙に浮かんだ声をただ愛おしいと思った。
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作者名：錆山 | 作成日時：2021年2月26日 20時
