指導医はオペ室の悪魔2【ブラックペアン】

第53話：行方2 ページ6

「何も。」


一言言い残して、速水もいくつかの資料を持って医局を去っていく。
速水の視線が外れた世良も、なんだかどっと疲れたように椅子の背もたれに背を預けた。

何も知らない田口は、世良や他の上級医を交互に見る。
何があったのか聞くつもりはないのだろう。彼は医局の奥の本棚へと向かっていった。


(生贄…か)


それはAだけでなく、もちろん世良にも該当する。
だからこそ、島津はあの二人を殴りつけるように会話をやめさせたのだ。

Aのことは、世良は一方的に見知っていた。研修医になる前から。
彼女とは大学が同じだった。

大学に居た頃、何度か彼女に助けられたことがある。

いっても、会話という会話はしていない。
通学路も全然違ったし、当時は名前も知らなかった。

彼女との接点といえば、筆記用具を忘れた際に、ペンを貸してもらったり、
土砂降りの中傘を忘れ、折り畳み傘を貸してもらったりした程度だ。

きっとA本人としては大したことじゃないし、きっと忘れているだろう。
何より、研修医になった時に「初めまして！よろしくね！」なんて言われたぐらいだ。

けど、世良にとってはちゃんと覚えていられる出来事だった。

お人好しな人だなぁと常々思っていたが、
こうして同じ医局にやってきてからは、しみじみと思う。

善というものに服を着せて歩いているような人物だ。


「おい、世良」
「……あ、はい」


ふっと思考が途切れる。世良は俯かせていた頭をゆるりと上げて、声の方へ振り返った。
資料を片手にした先輩が居る。さっと立ち上がり、要件を伺った。


「この資料のことなんだが、この後のカンファレンス前に――、」


世良は再び忙しない現実へと戻っていく。


(帰りに電話してみよう)


片隅で、Aの容態を案じながら。





「…お前、意外と可愛い字書くよな」
「えっ？ありがとうございます…？」

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