初夏 ページ1
｢密くん、起きたまえ！｣
聞き慣れた台詞が前方から響き、東は正面を歩く紬の背中から視線を外して其方を見やる。
初夏だというのに、新調したばかりの日傘の向こうから覗く太陽は早くも容赦なく地面を照りつけていた。
紬の隣、東の斜め前では丞が溜め息を吐く。耳に届くそれの音量から、彼が今どんな表情を浮かべているかは容易に予想がついた。
｢丞の出番だね｣
｢これでもう何回目だと思ってるんだ｣
仲良さげに駄弁る幼馴染2人組の肩の隙間から、歩いたまま船を漕ぎ始めた密が見える。そして、そんな彼をどうにか起こそうと奮闘する誉。
しかし、かくりと垂れた密の首が上がる気配は一向にない。
今朝、寮を出る際には真新しかったマシュマロの袋も、今やその筋肉質ながらも細い腕のなかで潰れ、くたびれていた。
それに気がついた、列の先頭で左京と団員の様子を見ていたいづみが苦笑いを零す。
彼女が意見を求めるように隣を見上げれば、左京は軽く舌打ちをした後、密を運ぶよう、やはり丞を指名した。
またもや大きな溜め息を吐いたものの、仕方がないと言わんばかりに丞も動き出す。
今や馴染みとなったその光景に、瞳を細めた東は楽しげに息を溢すのだった。
＊
『＿＿東くん』
場にそぐわない涼しげな、それでいて酷く優しい声が背後から聞こえた。
それに自然と歩みが止まり、東は胸が締め付けられたような感覚に陥る。
顔を見ずとも、彼にはその声の主が誰なのか解った。
名を呼ばれた本人よりも先に、不思議そうな顔をした他の面々が振り返る。
彼等に顔を見られぬよう、東は日傘を前に傾け、俯いた。
それを怪訝に思いながらも、視界に飛び込んだ景色に皆、息を呑む。
線の細い、美麗な女だった。
彼女の周りだけが、別の世界から連れて来られたようで、それは神秘的にすら感じる。
｢……A、ちゃん…？｣
大きな深呼吸を何度か繰り返し、ようやく彼女の姿を認めた東が、震える声を絞り出す。
いつもの落ち着きは、なりを潜めている。
『久しぶり、元気だったかしら』
人間が無意識のうちに注目するのは、目よりも唇らしい。それは、相手が異性なら尚のこと。
ふくりとした唇は、ゆるりと微笑んでみせた。きっと、触れればさぞかし柔らかいだろう。
それこそ場違いだが、東は無意識に生唾を呑んでいた。
知っている。東は何度も、彼女の唇に触れた。
その甘さも、柔さも、熱も。
ぜんぶ知っている。
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