壱 ページ3
里での湯治を始めてから一週間ほどが経ったある日のこと。私は今日も鉄珍様のお住いで、平和な一日を過ごしていた。
特に何かが変わるわけでもなく、毎日は私の思うがままに滞りなく過ぎている。体の疲れを癒すには、このくらい静かな日々がちょうど良い。
「Aさん、ちょっといいかね」
『……あら、鉄珍様』
夕方の湯浴みまでにはまだ随分と時間がある。それまで何をして過ごそうかと部屋で悩んでいたところ、ちょうど開け放っていた障子の影から鉄珍様のお面がひょっこりとこちらを覗いていた。
里長であるため毎日忙しそうにしているのに、今日は昼間からどうしたというのか。
鉄珍様は小さな体でちょこちょこと部屋に入ってくると、私の前にこじんまりと腰を下ろした。
『珍しいですね、こんな時間にお屋敷にいらっしゃるなんて』
「うん、それが実はなあ……お前さんに、折り入って頼みがあって来たんやけどなあ」
『まあ、頼みですか?』
「そうそう」
すると、鉄珍様はもじもじとしながら表情の変わらないお面を私の方に向ける。その姿は里長としての鉄珍様の雰囲気とは随分違っていて、正直心配すら覚えた。
とはいえ、他ならぬこの方の頼みとあればもちろん最善を尽すつもりだ。たまりにたまったご恩をお返しするには、絶好の機会でもある。
『もちろん、鉄珍様からのお願いとあらば何なりとお受けする所存でございますが……』
「お前さんは本当に優しい子やな。まあ、そう無理強いするつもりはないから心して聞いたって」
……それは心した方がいいのか、どっちなのか。
そんな少しばかり矛盾のある言葉を聞きながらも、私は改めて鉄珍様へと向き直るように畳の上へと座り直す。
それから少しの間を置いて、辺りの静寂を切るように鉄珍様が口を開いた。
「Aさん______あんたこそ良ければ、この里に嫁いで来てはくれんか」
『………………え?』
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雨と雫(プロフ) - あゝもう文才が神ですね!?更新頑張ってください!個人的に夢主ちゃん可愛いな (7月1日 19時) (レス) @page6 id: 312a1378ed (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:瀛 | 作成日時:2023年7月1日 16時