其の拾弍 女の情報、姉の名前 後編 ページ13
(そういえば……)
一郎は昨日の少年がいないことに気が付いた。其れに気付いたのか、太宰が云う。
「嗚呼、敦君は今彼女の処にいるよ。彼女にも彼女の業務が有るからね。
「それが判っていて如何してお前は
「サプライズは大事だろう?」
人生には驚きが必要なのさ!と何の悪びれも無く云う太宰に又一つ拳骨が落とされる。
「時に、ええと、君、名前は?」
「あ、山田一郎です。こっちが二郎で、こっちが三郎」
「ふむ、では一郎君」
「君の、姉の名前を教えてくれるかい?」
(突然何を訊いてくるんだと思えば)
そんな事かと一郎が答えようと口を開いた。
「──あれ?」
「如何したんだい?」
太宰も、弟達も、聴衆も一郎を見つめている。名前を言おうと開いた口からは、姉の名は出ない。
否、それどころか。
「──思い出せない」
「え?」
誰が、とは判らないが、誰かが聞き返すかの様に声を出す。
「姉の名前が、思い出せないんです」
一郎は今、自分がどんな顔をしているのか判らなかった。
丁度其の頃、敦は件の古書店にいた。
結論から云うと敦は「誰にも云わないで欲しい」と云う美妙の頼みを守れなかった。
今朝敦が出社すると共に太宰が訊き出そうとし、国木田も如何なんだと珍しく太宰と同調した。其の他の調査員も敦に食ってかかり、事務員も訊き耳を立てる気満々であった。終いには調査員である谷崎潤一郎の実妹にして事務員の一人であるナオミが社長を引っ張り出して来た。
社長も社の後ろ盾になってくれた夏目漱石の孫の知られざる話と訊けば、云う事は唯一つ。
「敦、話してくれるな」
「……ハイ」
敦に選択肢は無かった。
「まあ福沢さんが乗っちゃあしょうがないか」
思いの外美妙から御叱りは受けなかった。如何やら余り隠し通せるとは思っていなかったらしい。
安堵の息を吐き、敦が訊く。
「如何して知られてもいいと思ってるの?美妙ちゃんならずっと隠れている事だって出来る筈なのに」
昨日話を訊いた時からずっと気になっていた事だった。彼女の人脈や“異能力”を用いれば俗世より身を隠す事など容易い筈なのに。何故居場所が割れる事を容認し、あくまで他人の振りを貫くのみに留めているのか。
「もう既に手は打ってあるからだ」
「手…って?」
美妙は美しい笑みを浮かべた。
「私の名に関する記憶を“奪ってある”んだ」
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作者名:耐熱ガラス | 作成日時:2020年3月15日 17時