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「今日は色んな阿部さんが見れてラッキーっす」
そう言ってにんまり笑いかければ、阿部さんはほんの少し照れたような素振りを見せたあとで、嫌がるように顔を歪めた。
「からかわないで」
「からかってません」
どちらともなく小さな笑いが起こり、それが収まると、またすぐに静かになった。
「おやすみ」
阿部さんが先に言い、
「おやすみなさい」
私も素直にそれに続いた。
私の手が、指先が、阿部さんの手のひらをゆっくりと滑りながら離れていく。
名残惜しい気持ちはこれで終わり。
この手が離れたら、ふわふわとした綿菓子みたいな邪な気持ちは丁寧に折りたたんで、どこか見つからないところにしまっておこう。
そうでもしなきゃ、マネージャーとしての居場所を守れない。
この職場は私にとっての天職だ。
ほんの数ヶ月前までは当たり前だった独りも、今では違和感を感じるようになった。
この場所を失えば、私はきっと天涯孤独になる。
そうなったら今度こそ、もう無理だ。
だからこの感情に、意味なんてない。
意味を持ってはいけない。
指先が離れたとたん、また一気に胸の奥がぎゅっと切なくなるような寂しさが押し寄せたのを笑って誤魔化した。
「風邪、ひかないようにね」
小さく頷く。
「また明日」
「はい、また」
ぎこちなく手を振り、今度こそ私から扉を閉めた。
最後まで自然に笑えていただろうか、なにか変に思われるところはなかっただろうか。
そんなことばっかりが頭の中をグルグルと回る。
扉を施錠すると、パステル色をした空気も、匂いも、何もかもが全て遮断され一気に現実に引き戻される。
防音設備の完璧な室内に音はない。
だからもちろん、廊下の足音だって聞こえるはずもない。
それでも私の足は縫われたようにその場から動くことができなかった。
玄関の扉に頭をつけて寄りかかり、目を閉じる。
聞こえるはずのない彼の足音に、そっと耳を傾けた。
何も聞こえない。
大きくため息をついた。
「あー…もう…！」
めちゃくちゃ意識してるじゃん。
思春期かよってくらい、ドキドキしてるじゃん。
渡辺さんが今の私の様子を見たら、指を差して爆笑するに違いない。
想像したら、なんだか腹が立ってきた。
私に阿部さんとどうにかなろうとか、そんなつもりはない。
絶対に。
「タレントとマネージャー、タレントとマネージャー、タレントとマネージャー」
うわ言のごとく繰り返し唱えながら、駆け足になる鼓動の音を必死に誤魔化した。
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作者名：泥濘 | 作成日時：2023年11月4日 17時
