. ページ29
そらるにああ言われたからと言って、何かが変わることはなかった。
帰ると志麻が「おかえり」と言って出てきてくれたが、私はなにも答えられなかった。いつものハグも、今日は志麻が手を広げる前にリビングへと向かい、お風呂に入って、そのままベッドに潜り込んだ。視界の端で志麻がなにか言いたげにしていたが、それさえも向き合うことが出来なかった。
リビングからうっすらとテレビの音が聞こえてくる。それさえも塞ぐように布団を頭まで被りながら、頭では全く違うことを考えていた。
べつに、志麻がなにか悪いことをしたわけじゃない。あんなの、どうってことない。
前に付き合っていた彼と別れたときに嫌というほど思い知らされたはずだ。信じるだけムダなのだということを。それなのに、優しくされただけ、キスされただけでコロリといってしまうなんて、ほんとに笑える。
必死に涙をこらえながら、私は繰り返し自分にそう言い聞かせた。
それなのに、それからしばらく経って志麻が寝室に入ってきたとたん、すべて消し飛んでしまった。あの日以来、ソファで寝ていたくせに、どうして今日に限って来るのだろう。
「………A」
ベッドがかすかに揺れた。
「寝とるん？」
私は何も答えなかった。冷たい空気が入ってきて、少しだけ布団が捲られたのが分かる。
「A」
志麻がもういちど、私の名前を呼んだ。
「そうやんな、俺は人間とちゃうし………いいかげん、現実見ろってことやんな」
切ない響きをした言葉の最後の方は、震えていた。どうしてそんなに悲しそうなんだろう。傷ついているのは、私のほうなのに。
衣擦れの音がして、額に何かが触れた。触れていたのはほんの一瞬で、すぐ近くに志麻の顔があるのが目を瞑っていても分かる。
「愛しちゅうよ」
そっと、祈るように志麻は囁いた。
それを聞いて、ずっと堪えていた涙がぽろりと零れた。
「A………？」
そっと目を開けると、すぐ目の前に戸惑った顔をした志麻がいた。
「起きてたん？」
「………ねぇ」
私は無意識のうちに志麻のスウェットの裾をくいくい、とした。
「さっきの、ほんとう？」
おそるおそる、聞いてみる。志麻は困ったように眉を下げて微笑んだ。
「………ほんま」
胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。けれどそれは言葉にはならずに、涙になって溢れてきた。
.
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 385人がお気に入り
お気に入り作者に追加
この作品を見ている人にオススメ
この作品を見ている人にオススメ
「歌い手」関連の作品
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告感想を書こう！(携帯番号など、個人情報等の書き込みを行った場合は法律により処罰の対象になります)
りひと(プロフ) - みぃさん» コメントありがとうございます。お楽しみいただけて何よりです。がんばりますので、今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。 (2020年9月21日 22時) (
レス) id: d056bbadb9 (このIDを非表示/違反報告)
みぃ(プロフ) - 感情移入してしまうくらい本当に面白いです（ ; ; ）更新頑張ってください！楽しみに待っています！ (2020年9月21日 4時) (レス) id: d65a61624a (このIDを非表示/違反報告)
りひと(プロフ) - まーかーさん» コメントありがとうございます。がんばります！ (2020年9月12日 12時) (レス) id: d056bbadb9 (このIDを非表示/違反報告)
まーかー(プロフ) - 続編おめでとうございます！あぁ...すごい切ない展開...更新がんばってください！ (2020年9月11日 17時) (レス) id: f217387575 (このIDを非表示/違反報告)
りひと(プロフ) - Quuさん» コメントありがとうございます。マルボロの話はずっとどこかで出したいと思っていたので私も嬉しいです。志麻さんの話はなかなか書く機会に恵まれず、完結している作品がないので、このお話は最後まで書けるよう頑張ります。今後ともよろしくお願いいたします。 (2020年9月8日 22時) (レス) id: d056bbadb9 (このIDを非表示/違反報告)
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：りひと
| 作成日時：2020年9月3日 21時
