健全なあなた達へ３【YouTuber短編集】

⇒海賊02 ページ41

目の前にいる彼は、普段なら絶対にしないようなだらしない表情をしている。眼鏡をずらして顔を赤くさせた虫さんに自分が頼んだ事を、彼はきっとすぐに忘れる。何を頼んでもどうせ明日には覚えてない。そこまで考えて、あたしは息を呑んだ。

「きすしてよ」

アルコールを含んだ血が、体の中でぞわわと一気に駆け巡る。あたしの言葉に俯いて黙り込む彼。
ぎゃあ、しまった、間違えた。慌てて取り繕おうと顔を覗き込もうとした時、スッと顔を上げた彼と目が合う。

「いいよ」

軽い返事をしてニッコリと笑った彼は、もはや正真正銘の酔っ払い。

「A、目瞑って僕も瞑るから」

「は！？え、えっ、まって」

「キスの時に目開けるとか、邪道だよ」

「冗談！やっぱり別のお願いごとにする…！」

「そう。なら僕がしたいからするわ」

それはもう完全に酔っ払ってるやん！と、あたしの脳内としみつが突っ込む。だが彼は止まらない。するりと手指が絡まり、アルコールの混ざった互いの呼吸が空中で交わる。唇と唇が触れ合ったら、きっと。

「………！！」

躊躇いなく間合いを詰めてきた彼の体を、気付けば勢いよく押し返していた。

「わっ」

間抜けな声を出して床に転がった虫さんから、あたしは一気に距離を置いた。妙な罪悪感と共に何とも言えない昂(たかぶ)りを感じた。突き飛ばされて何かを呟いた後、そのまま眠気に勝てず目を閉じた彼を見つめた。彼は直ぐに寝息を立て始める。
打って変わってあたしの心臓は痛いぐらいどきどきしているし、リズムなんてはちゃめちゃだ。散らばった空の缶と、じめじめとした酒臭い空間があたしをカオスにさせていく。自分の口から出た"彼にして欲しい事"が生々しくて、でも素直な感情だという事に気付くのに時間は掛からない。

「………しとけばよかった」

お酒に飲まれて爆睡する彼等を見つめながら呟いたあたしも、例に漏れず飲まれている。

「いや……しなくてよかったかも」

次の日にもし彼がこの事を覚えていて、昨日はごめんとか言われたらあたしは普通に終わる。そんな事なら、ちょっとふざけただけってあたしから言う方が幾分もマシ。狡いけど、それがいい。
ゆめまる達の眠るソファーに、何事も無かったかのように凭れて目を閉じ、静かな朝が来るのを待った。この夜のイタズラな約束を、彼が忘れている事を願うのみ。


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