91 僻みと絶望 ページ41
トイレの洗面所で乱暴に顔を洗ってから、ハンカチを持っていないことを思い出し、腕で水滴を拭う。
鏡の中の私は酷い顔をしていた。充血した目、いつもより尖った頬。こんな顔でステージに立っていたのかと思うとやるせなかった。
控え室に戻ろうとして足を止める。大人たちの会話が聞こえてきたのだ。
「あの子はピアノの申し子ね」
「名を体で表している。まさに神童だ」
「大人顔負けじゃないかしら。表現力も技術力も申し分ないわ」
神童のことだ。さも当然のように並べられる褒め言葉に唇を噛む。
──そうして次に聞こえてきたのは、その素晴らしい演奏に付随していた雑音についての批評だった。
「それに比べるとあの子のバイオリン、安っぽくて釣り合ってない気がするわ」
「こんなこと言ったら可哀想だけど、神童くんの引き立て役といったところか」
「悪くはないんだけど、パッとしないっていうか」
地面が音を立てて崩れていくような気がした。
わかっているのだ、自分が神童と釣り合ってないことくらい。わかっているからこそ、他人に指摘されるのがどうしようもなく悔しかった。
神童と同じ時間だけ練習していて、いや家に帰ってからも自主練を積み重ねていたというのに、この差。
「──相応しくないわよね」
その言葉は耳を塞いだ指の間をすり抜け、的確に私の心臓を射抜いた。
＊
その後はもう、駄目だった。
自分の演奏に価値を見いだせなくなったのだ。レッスン前のチューニングでも、一番好きだった曲を弾いても、自分で聞いていてわかるくらい音に精彩がなくなった。
楽しくないのだ。弓を持っても、心が躍らなくなった。
たかが一回の挫折で、たかが一回の批判で、と思われるかもしれない。それでも私のちっぽけな自尊心はズタズタに切り裂かれたのだ。
コンクール本番が終わったから練習はなくなったが、神童の家にはその後も二、三回ほど行った。半ばルーティンワーク化していたのだ。
神童はいつものように私を部屋に入れ、今日は何を弾こうか、と無邪気に笑う。
奏でられるピアノの音は光り輝いている。私の演奏はそれをかき消すノイズでしかない。
「どうしたの、Aさん……？」
耐えきれず弓を置いた私の顔を覗き込む神童。
大きな瞳が不安げに揺れている。ここ数日、いつにも増して口数の少なくなった私が気がかりなのだろう。
もう、限界だった。
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作者名：キメラ | 作成日時：2022年2月15日 9時
