312 不穏な影 ページ5
「行ってきまーす」
鞄を肩に引っ掛け、家を出る。
「車と不審者に気をつけて行ってらっしゃい早く帰ってきてね！！」という姉の見送りの言葉が聞こえないのには、まだ慣れそうにない。
夏休み前にはあんなにうるさかった蝉の大合唱は、九月になるとさすがに聞こえなくなっていた。
逆に蒸されるような暑さは酷くなっている気がする。アスファルトに揺らめく陽炎を横目に、通学路を歩き出す。
頭の中では、今日行われる英語の小テストのことと、部活のこと、神童のことなんかが代わる代わる浮かんできていた。
ありふれた日常。普通の毎日が、今までもこれからも、ずっと絶えることなく続いている。
──今、すごい幸せだなあ、自分。
家族がいて、恋人がいて、部活も、趣味のバイオリンも充実していて。満たされていると感じる。何もかもが、上手くいっている。
このままこんな日々が、ずっと続けばいいな。楽しくて穏やかで、かけがえのない──
「AA」
色のない、平坦な声だった。
名を呼ばれて反射的に振り向き、そこにいたのは、奇妙な格好をした少年だった。
ユニフォーム、だろうか。黒を基調としたそれは身体にぴったりとフィットするようなデザインで、どこか近未来的な印象を与えてくる。
いつの間にそこに現れたのだろう……誰ともすれ違わなかったはずだけど。初対面でフルネームを呼ばれたことも相まって、私の中の警戒心が少しだけ首をもたげた。
「お前からサッカーを消去する。そこを動くな」
──その少年は、無表情のまま眉一つ動かさずそう言った。
沈黙。
私たちはしばし見つめ合う。五秒、十秒。時間が過ぎていき。
「……はい？」
耐え切れなくなって問い返す。
少年は片時も私から目を離さなかった。射抜くように、無機質な瞳で私を捉え続けている。
朝の光が雲に隠れ、アスファルトに伸びていた自分たちの影が消えた。
──聞き間違い？ コスプレ？ 何かのドッキリ？ 撮影？
いくつもの可能性が頭に浮かぶ。周囲には私たちの他に誰もいない。住宅街なのに、生活の気配すら感じられない。
「えっと、貴方は……？」
若干逃げ腰になりながら尋ねる。
自分の名前が一方的に知られているのは不快だ──そう思った。
背中にじっとりと嫌な汗が滲んできたのは、きっと暑さのせいだけではないだろう。
「名はアルファ。私の使命はサッカーを消去すること」
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作者名：キメラ | 作成日時：2022年11月2日 10時
