幾万の敗北の、一 ページ5
しかし同時に安心もした。ようやく死が自分の前に訪れてくれた。そして、自分の目の前にあることなら、自分の力でどうとでもできるはずだ。
「海を知らない者にどうやって海を伝えるか」。我ながら、とっさにしてはいい問いを立てたものだと思う。こんなもの、話そうとすればいつまでも長引かせることができる。答えなどない。唱自身が答えを求めていないから。むしろ彼の主眼は、この時間のうちに、彼のあの世への執着を断ち切ることにあった。時間さえあれば解決できると思っていた。今までは、届かない場所にいられたからどうにもできなかった。今は目の前にいる。目の前にいてくれさえすれば、自分は死を防げる。甘い見通しだった。
最初の一週間。約束した時間、約束した場所に彼がいると安心した。諦めろ、とほのめかす人物も周囲にはいたが、どうにかできるはずだと確信していた。次の一週間。状況はよくもならないが、悪くもならない。誘の様子、そして海についても。海なんてどうでもいいはずなのに、長引けば長引くほどいいはずなのに、どうしてこうも答えがでないのかと何故か苛立っていた。さらに一週間。もう彼を生かすのは無理かもしれない。そもそも俺が傲慢すぎたかもしれない。そう諦めが湧いた。……でも、それを少しだけ伸ばすことはできるかもしれない。この一週間の討論は、とにかく遅延行為をし続けた。どちらが錯乱しているのか分からなくなるくらいに。続いて、先週。今度は唱自身が彼に会うのが嫌になった。嫌になった、というと語弊があるが他に近い言葉が見つからない。もし、今日の些細な言葉で彼の背中を押してしまったら？ もし、今日会うのが最後になってしまったら？ 何ということはない。昨日会ったのが最後になるだけである。
そして、今週。何かが分かった気がした。ふ、と思わず笑みが漏れた。それを真似するみたいに、彼の目の前の誘も笑った。赤子のような純粋な笑みだった。
「もういいよ。行けよ。何でこんなことに付き合ってるんだよ」
「お前が困ってたから。当然だろ？」
はは、と唱が乾いた笑みを漏らした。そのまま立ち上がり、誘を見下ろしながら「嘘だよ」と告げる。
「海を見たことがない人間に海を伝える方法？ そんなの決まってるだろ。連れてって見せてやればいいだけだ。これが海です、って」
お前も見に行けば分かるよ。そう言って軽く肩を小突いた。
それが、唱が誘にかけた最後の言葉だ。
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