しあわせ[要再配達] ページ18
『文字は、言葉は、時間も場所も超えられる』
代わりに、人間は時間も場所も超えられない。
先日来た配達員から受け取ったチラシを、ぼんやりとトーマンは眺めていた。外では小雨が降っている。長雨の時期だ。それに伴って、どうも憂鬱な気分になる。
小説でも読もうかと思ったが、本には手が伸びなかった。せっかく時間と場所を超えた彼女の言葉に、不誠実な真似をしたくなかったのだ。
チラシを入れていたラックには、ぽつんと一冊本が入っている。新品の本。この本の著者の兄、唐瀬カイから手渡されたものだった。彼女の遺稿をまとめて出版したらしい。既に叡智の書庫には彼女の本が納められているが、それを知っての上の行動だったようだ。数が多ければ多いほど残る確率も高くなる。読め、とは言わない。せめてもの誠意として受け取れ。何、気に食わないんだったら燃やせよ。得意だろ。少し棘のある言葉だったが、彼女のことを慮って――同時に、ようやく自分も尊重しようと思えるようになったのだろう。
しかし反対に、これの存在によって自分の足は竦んでしまうようになった。愚かな話だが、あまりにも幸せすぎる、といつからか思うのだ。モール家の従者として生まれ育ち、主のためになることなら何でもやるよう言われて育った。道具であるという認識で育った。その呪縛を解いてくれたのは他でもない彼女だったが、そんな彼女はもういない。ただ自由になっただけの自分がいる。
次の呪縛は彼女の兄だった。忘れるな。お前が殺した。いっそのこと、そうであればどれほどよかったことか。けれど、その兄も既に歩き出そうとしている。
そして、そんなところにやって来た彼女の本。「トーマンが幸せになってくれて嬉しいよ」きっとそう言うだろう。文字の解放された世界を見て、祝福するだろう。けれど――そうであればあるほど、あまりにも自分が受け取りすぎている気がする。彼女からもらった自由は、それこそ慈雨のように無償のものだった。彼女の兄からは勝ち取ったものだったが、この本もまた、与えられたものである。
自分に与えた二人は、例外なく返そうとするのを拒む。彼らだけではない。自分の周りの者は皆そうだ、と思う。常に自分の身には余るものばかりもらってきた。けれど、この身に余るものを自分はどうすればいいのだろう。
やはり気が滅入って仕方がない、とトーマンは立ち上がる。少し体を動かそう。予定ではなかったが、彼女の店を手伝いに行くことにした。
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