35話 ページ36
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「それまではずっとずっとずっと、俺じゃなかったと思う。……なんて言うと語弊があるかも。でもね、そう思うくらい君と出会ってからの出来事が俺にとって大きすぎるんだぁ」
1匹の小さな鳥が私たちの前に止まる。誰かがここで鳥に餌をあげたのだろうか、鳥はこちらを首を傾げて見上げる。彼もまた、その鳥を見て首を傾げた。何も無いとわかると、その鳥は無情にも飛び去って行く。少し残念そうに彼は笑って、続く言葉をこぼし始めた。
「女の子をデートに誘ったのも、俺自身の幸せを願ってもらったのも、自分を大事にしてって怒られたのも初めてなんだぁ。こんなに生きてるのにまだ初めてのことがあるんだよ、面白いよね。……シェアハウスを決めたのも、最初は国としての義務感だったんだけどね、今は、……ふふ、ちょっと恥ずかしいけどあいつらは家族だからさ。……君が言う俺自身の物語っていうのがわかってきたように思うんだ」
私は彼の言葉に相槌を打つばかり。時々地面に止まっては休憩しているのか餌を求めているのか、鳥がこちらを見上げてくる。
「ねえ、Aちゃん」
ふいに名前を呼ばれて彼の方を向く。彼は右手を伸ばして私の後頭部を撫でる。今までのどんな時よりも近い距離。彼は私の瞳をじっと見つめたまま言う。
「キスしてもいい?」
そよ風が私と彼の髪を微かに揺らす。私は小さく頷くことしか出来なかった。
「目、閉じて」
彼に言われるがまま、私は軽く瞳を閉じる。たった数秒のキス。私のファーストキスは教会裏の墓場だった。彼と私が同時に目を開ける。唇に触れていたぬくもりや感触が未だに抜けない。たった1回、たった数秒だったけれど人間がキスをする理由がわかったような気がする。
ステンドグラスのように透き通った彼の瞳には、どんなものが映っているのだろう。私の頬を撫でる彼。今はきっと私以外は見ていない、私も彼以外のことは考えられない。
「愛してる、俺と一緒に生きて欲しい」
私が見てきたどんな彼よりも真剣な瞳。冗談じゃないことは明確で、そもそも彼はそんな冗談を言う人では無い。初めて彼に言われた愛の言葉と初めてしたキス。つくづく人間は反射で生きていると実感する。体験していることへの理解が追いつかない。
彼は私の返事が遅いと誤魔化すクセがある。でも今日だけ、今だけは私が返事をするまで彼はずっと私を見つめる。彼のその手は微かに震えているように見えた。
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