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私が彼の名前を呼んだ。
それが、魔法が解ける合図だった。
ここから遥かまで伸びていた夜空は氷が割れるように瓦解する、その衝撃に思わず目を閉じた。痛くも何ともないことを知っていながら――――――
知って、いた。
私はこれが魔法ではないことを知っていた。
坂田くんが魔法使いではないことを、彼が人間であることを知っていた。
私達はきっと幸せだったけれど。
永遠ではないことも知っていた。いつか別れが来ることも知っていた。
こんな場所が現実にないことも、知っていた。夢だってことも嘘だってことも、
それは、坂田くんも一緒。
隣を見た。
坂田くんは私の隣にいた。夢でそれはわかっているのに安心せずにはいられなかった彼が私の隣にいることが私の全てだった。
坂田くんは笑顔だった。
初めから全部、わかっていたみたいだった。
「A」
坂田くんが私を呼ぶ―――泣き崩れた。
私は彼の名前を呼んでしまった。彼を疑って呼んでしまった。それが箱庭を壊すトリガーだった。
夢から覚める、コールトーンだった。
「...そんなに泣かんといて」
そんなこと、言われても。
失いたくない、離れたくない、いなくなりたくないしいなくなってほしくない。
側に。となり、に、いてほしいそれだけで、
「...大丈夫や。...ほら、さっき見たの、海と空やろ?」
頷く。
「海も空も、全ての命の始まりやねん」
思い浮かんだのは二人で見た群青と濃紺だった。坂田くんに寄りかかってしがみついて彼が隣にいたその景色。
その二つの青にも彼の赤髪は染まらず坂田くんは消えてなくならなかった。
生命の根源が密やかに胎動する二つの青を目の当たりにしても。
坂田くんの赤髪はそのままで私の隣に彼はいて、でも、
そんなの、詭弁じゃないか、
――――――なんてね。
彼の曖昧な笑みを思い出した。目を瞑るよう促したときの僅かな声の震えも魔法使いだと言ったときの何か刺さったような顔も。温い体温に内包された、痛みも。
思い出して、想った。
坂田くんだって辛い苦しいそれはきっと私以上。その上で彼は私を夢に呼んで嘘を囁いて。
魔法の呪文を囁いて。
私に魔法を、かけたのだ。
やるせない、その中で祈った。
冷徹で無心で静寂で空虚なこの硝子の部屋で、決して現実を透かない透明な箱庭で。
それが悪夢であろうと正夢であろうと。
どうか夢は覚めないでくれと、切に。
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