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最後って決めてたから、と女は呟いた。
決して大きな声ではない。
でも小さくクラシックミュージックの流れる店内では、十分な大きさだった。
『だから煙草にも手を出してみた』
鞄に押し込んでいたせいか、くしゃりと潰れた箱。それにしなやかに細い指を伸ばした女は、まったく減っていないことを嘲笑うように弱く笑みを浮かべて、一本取り出した。
ーカチッ
消え入りそうな音でついた火。
仄暗い天井に消えていく煙。
うっすらと開く真紅の唇。
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酒も煙草も、美味しくない。
つまらなさそうに、どこか惜しむように煙草を口にする女を横目に、男も箱に手を伸ばす。
慣れたように口に咥え、マッチを手に取る。
いざ箱に擦ろうとしたとき、女の顔がズイと近づいた。女の長すぎる睫毛が、瞳にぶつかりそうなくらい近くだ。
女の煙草の匂いがつんと鼻の奥を差し、甘く柔らかい女の匂いにくらりとする。
男は煙草を咥えたまま、動きを止めた。
女は何も言わない。
ちらり、とその瞳を上に向け、その意図を伝える。
しかし、男はその行為をしないとわかって、自ら相手が咥えている煙草に、自分が咥える火のついた煙草を押し付け、息を吸い込んだ。
じわりじわりと橙色の灯が広がり、男の煙草からゆらゆらと煙が上がる。
ゆっくりと離れた女は、意地悪く笑った。
『煙草吸ったら、
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灰皿に煙草をすり付けた女は、少しばかりすっきりとした顔で鞄から財布を出す。
手慣れた様子で会計を済ませ、鞄を手にし立ち上がり、暗がりで何を考えているのかわからない男に改めて目を向ける。
『貴方のお陰で心残りはないわ』
ありがとう。
感謝を述べ、角のへこんだ中身のつまった煙草の箱を男のグラス横に置く。
そのまま、一度も振り返らず店をあとにした。
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残されたのはまだ温もりの残る煙草の箱と
どうしようもない胸のざわめきだった。
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作者名:ハル | 作成日時:2021年9月12日 0時