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彼女が店に姿を表したのは、それから1か月後。景色がすっかり秋めく、昼下がりだった。いつもは敢えて昼食の時間をずらした老人たちが、店にいる時間だが彼女が来るのを知っていたかのように、店には誰の姿もない。
「Aさんっ、」
久しぶりに会えた驚きと、寂しさで、梓の声も高ぶる。
永野Aは、ロングヘアーから切り揃えられたボブヘアーへと季節がえをし、その腕には花束が抱えられていた。
「わっ、素敵な秋桜!」
『来る途中のお店で、目を引いちゃって。私、秋の花の中で一番好きなんです』
「立派な花束ですねえ」
ブラウンリップが鮮やかな口元が、緩やかな弧を描く。
彼女はいつもと違って、奥へと進んでこようとはしなかった。入り口から数歩入ったところで、カウンター越しに梓と言葉を交わし、安室はその様子をただ後ろから見守っていた。
『ポアロに飾ったら素敵かなって』
「えっ、くださるんですか?」
『うん是非』
顔を綻ばせた梓は、Aから花束を受けとり笑顔で振り返った。どうやら、安室にもよく見せたいらしい。
「ほら安室さん見てください、とっても素敵ですよ。さっそく花瓶に移してきますね」
「梓さん。僕がやりますよ」
バックヤードへと消えかける梓の足を無理矢理とめ、その腕から花束を受けとる。梓は、強引な動きに少々戸惑ってはいたが、興奮しているのか、躊躇いなく直ぐにAへと向き直っていた。
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安室はしばらく、その花束を見つめていた。心にも、記憶にも、脳にも、骨の髄にまでも、忘れぬよう焼き付けなければならないと勘が訴えていたからだ。
もうきっと彼女は、ここには来ないだろう。
もうきっと彼女は、僕を忘れて別の人と幸せになるのだろう。
バックヤードから、秋桜を生けた花瓶を持って表に戻ったときには、Aの姿はもうなかった。まるで、貴方だけにお別れを言わせるもんか、と言われているようだった。
「Aさん、もう帰っちゃいました。忙しいんですかね?」
ただひとり何も知らない梓だけが、つまらなさそうに唇を尖らせていた。
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「こんな色の秋桜あるんですね、知りませんでした」
「チョコレート秋桜って言うんですよ」
「確かに、チョコレートみたいな色してる」
花びらに触れた梓は、納得したように頷く。
「花言葉は、‥‥恋の終わり」
消え入るような声で紡がれた言の葉は、きっと誰にも届くことはない。
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作者名:ハル | 作成日時:2021年9月12日 0時