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ーカランコロン
その扉を開くと、店にいるのは安室透ただひとりだった。Aは、一瞬ドアハンドルをきゅっと握り締めて入ることを躊躇ったが、安室の何ともない“いらっしゃいませ”という挨拶を聞き、ぎこちない笑顔で店に足を踏み入れた。
カウンター席に腰掛け、メニューを開く。頼むものなんて決まっているが、こうでもしないと唐突に生まれた緊張感はどうこう出来そうにない。
「今日からマシュマロココアを始めたんです。まだ少し暑さが残りますが、おすすめですよ」
安室は優しく微笑みかけながら、冷たい水の入ったグラスをそっとテーブルに置く。
じゃあそれで。
蚊の鳴くような小さな声だったが、安室は分かりましたと戸棚のソーサーに手をかけた。
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『今日、梓さんは?』
「用事があるみたいで、早めに帰られましたよ」
『そうですか‥‥』
作業する音だけ。あとはどうしようもない沈黙。
Aはただ、安室が作業する様子を眺めていた。
褐色の肌に、透き通る
梓が、安室と食材の買い出しを共にするのは気が休まらない、と言っていたのを思い出した。
作り物みたいに、美しく、隙のない男。
「そんなに見られると、緊張しますね」
わざとらしく、困惑したような愛想笑いを浮かべた安室に、Aは声をひねり出した。
『嘘つき』
その言葉に被さるように、来店を知らせるベルが鳴り響いて。結局、彼にその言葉が届いたのかどうかは定かではなかった。
その代わり、
「あーっ、Aお姉さんだぁ!」
可愛らしい女の子の元気な声が店に響き渡った。
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作者名:ハル | 作成日時:2021年9月12日 0時