溺るる、さむがり 3 ページ10
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「ただいま」
冷たい廊下の電気をつける。
右手に持った花束を、少し指で整える。
ひとりには少し贅沢な1LDKの間取り。駅から近くて、日当たりも良い。7階だから虫も出ないし。
欠点を挙げるなら、少し寒いくらいだ。気にするほどではない。
間接照明を次々とつける。
優しい光が灯る。ぼんやりと薄暗い部屋。
明るいとしょうちゃんがいなくなってしまう気がした。
「おかえりぃAちゃん」
「しょうちゃん、お土産」
ブーケのリボンを解き、適当な花瓶に生ける。
「わあ、かわいいなぁ」
「わたしね、思い出したことがあるの」
「え、むかしの記憶？」
「うん」
しょうちゃんが、薄い身体をさらに小さくして、かわいい瞳をわたしに向けた。
「仲のいい男の子が居たんだ。お兄ちゃんの友達で、幼なじみみたいな。すごく優しくてね、お兄ちゃんと喧嘩して泣いた時、よく頭を撫でてくれたの」
「お父さんが帰ってこなくなった時も、ずっとその子がそばにいてくれたの。いつも優しくて、大好きだったの」
「今日お母さんと話すまで、すっかり忘れていたよ。あんなに大切な思い出なのにね、変だね」
「当時はすごく背が高い子だと思ってたなぁ。今じゃわたしの方が高くなっちゃったね」
「しょうちゃん、わたし、もう30歳なの」
「お父さんのことも乗り越えたよ。仕事もちゃんと一人前だよ。きみのことも、ちゃんと、思い出せたよ」
「ごめんね、ずっと心配かけていたんだね」
「ずっと、一緒にいてくれて、ありがとう」
つん、と鼻が痛くなった。
泣くな、わたし。
泣いたらしょうちゃんが心配しちゃうじゃないか。
しょうちゃんが小さな身体で、少しだけ背伸びをして、学ランから伸びる細い腕でわたしの頭を撫でた。
幽霊の手は、ひんやりしていたけれど、
ちゃんと、彼の手だと思った。
ずっとそばにいた。
まるで一人暮らしじゃないみたいだった。
楽しかった。
「もう、帰っていいんだよ」
たくさんごめんねと言いたかった。
ずっとここにいさせてごめん。
お母さんのところに帰せてあげられなくてごめん。
心配かけてごめん。
でも彼は、ごめんと言ったら怒ってしまいそうだった。
僕が好きでAちゃんのそばにいたんやでって。
小さな手で、わたしのおでこを優しく弾く。
もう、しょうちゃんは何も言ってくれない。
この部屋は少し暖かくなった。
なんだか明るくなった気さえする。
きっと、気のせいに違いない。
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作者名：ねこひこ | 作成日時：2020年2月13日 21時
