__第九幕__ ページ43
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その場の誰もが、息すらも忘れて彼に見入る。俺はまだ、動けずにいる。一秒が随分長くに感じられて、まるで大きなシャボン玉の中に囚われているみたいだ。
『お兄様目を覚まして!』
横からえむの声がして、やっと俺は我に返った。世界に音が戻る。ああ……そうか、今はショーの途中だった。
客席から見えない位置で、自分の腕に思い切り爪を立てた。しっかりしろ馬鹿者。
気を取り直して、一歩前へ踏み出る。それは刻一刻と近づいてくる、が。
『王よ』
とても不思議な感覚だった。自分で自分に話しかけているような、独り言のような。ショーステージにいるはずなのに、どこか別の場所に一人でいる気もする。
そして、あそこに立っているのは間違いなく天馬のはずなのに、何故だか鏡の中を覗き込んでいるようにも、思った。
両手を胸の前で握り合わせた。後ろでえむが伺うようにこちらを見ているのがわかる。きっと俺が何かしら合図を出すのを待っているのだろう。
でも大丈夫。今の俺なら――いける。
『思い出してください、音楽の素晴らしさを……歌うことの楽しさを』
肺にはち切れんばかりの空気を吸い込んで。
頭の中に音を呼び出して。
雑念は取り払って、真っ直ぐ前を向いて、背筋を伸ばして、覚悟を、決めて。
あれから何年も経って、今やっと。
錆びついてしまっていた喉を、澄んだ音が通り抜けた。
☆
天馬司は目を見開いた。彼だけではない。えむも、舞台袖の類も、観客も。
誰もが、海星Aの歌唱力を前に、ただ呆然としていた。そうするしかなかった。彼らに許されたのは、この声を一音でも逃すまいと、聴力に全神経を注ぐことだけだった。
寧々のような目を見張る伸びやかな高音ではなく、体の芯を揺らされるような力強いアルトボイス。心を掴んで、離さない。
『――――』
でも……何かが、違う。
……待て。司は己の思考のストップボタンを押した。一体何が違うというのだ。Aがまた歌っている。それでもう十分ではないか。あんなに、
そこから先は、考える暇がなかった。
「――っ、ひっ……!?」
怯えたような、引き攣った呼吸。
Aは観客席のある一点を凝視して固まっていた。その目は溢れ落ちてしまいそうなほど大きく開かれ、瞳孔は不自然なまでに広がっている。
『お兄様、お忘れになったの? これは、お兄様が子供の頃よく歌ってくれていた子守唄ですわ!』
『ああ……そう、だったな』
えむに合わせて、素早くアドリブを始める。観客の誰も異変に気がついていないのが唯一の救いだった。
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ありに(プロフ) - 5年ぶりに夢小説を漁ってたらとんでもない神作品に出会ってしまった…応援してます☺️ (2023年3月10日 19時) (レス) id: 1064f8688a (このIDを非表示/違反報告)
ただのせかおた - 最初の注意事項とか舞台挨拶(?)みたいな感じで書いてるのめっちゃ素敵です!!お体には気をつけてこれからも頑張ってください💍応援してます!! (2023年1月21日 23時) (レス) id: 5310fc155c (このIDを非表示/違反報告)
kubota6(プロフ) - この作品めちゃ好きです!応援してます! (2023年1月10日 23時) (レス) @page17 id: a05e9c9f42 (このIDを非表示/違反報告)
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