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「で？ 腹は決まったか？」
会社の自販機近くのソファに一人で座っていると、隣に磯崎が座っていた。驚いた拍子に手からペットボトルが滑り落ちそうになり、慌てて両手で掴む。こうも悪魔に絡まれては、おちおち休んでもいられない。
「……契約はしない」
「へえ？」
磯崎は今回もサラリーマンに扮していた。脚を組み、膝の上で手を組んでいる。
勧誘を断られたにもかかわらず、磯崎は余裕のある笑みを崩さなかった。会話の主導権はあちらにあった。相手は悪魔だ。惑わされないように、と思えば思うほど、追い詰められているような気分になる。
おもむろに磯崎がこちらにぐっと身体を寄せた。鋭い目に吸い込まれそうになる。距離を取らなければならないと、頭の中で警報が鳴っているのに、身体は凍ってしまったかのようにまったく動かなかった。
「じゃあ、なんで俺の名刺捨てずに持ってんだよ」
悪魔が囁く。
「お前もわかってんだろ。俺と契約する以外に、母親を助ける方法はねえってことぐらい」
それはこの世で一番、甘美な音に聞こえた。
磯崎の名刺を受け取ってから、もう一週間が過ぎていた。
言い返したいのに言葉が見つからない。息は浅くなるばかりで、口の中はからからに乾いていた。額に滲んだ汗が目元に流れ落ちてくる。
ソファに置いていた手を掴まれる。磯崎の手は、ぞっとするほど冷たかった。
「可哀想に。俺ならお前を助けてやれるぜ」
持ち上げられた私の手のひらに、磯崎がもう一方の自分の手をかざした。刃物で切られたような痛みが走ると共に、廃ビルでの光景がフラッシュバックする。彩花の手から滴り落ちる真っ赤な血と、契約書。あのときの彩花の気持ちが、今ならわかる。サインを拒むことができない。
だって、こうするしか――。
そう思った次の瞬間、磯崎とは違う誰かが私の腕を引っぱったかと思うと、磯崎がソファから転げ落ちた。磯崎は床に片膝をついて私を見上げ、そして心底可笑しいと言いたげに笑った。
「母親の次は娘に手出すのか、剣城」
剣城が私を守るように、私と磯崎の間に立っていた。私からは剣城の表情はわからないが、後ろ姿だけでも殺気立っていることが伝わってくる。
「どけよ。嫉妬は見苦しいぜ」
風が吹いたわけでもないのに、磯崎の髪がふわりと浮いた。胸の奥がザワザワする。
まさか、廃ビルのときのように、ここで暴れるつもりなのだろうか。そんなのひとたまりもない。
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作者名：はるま | 作者ホームページ：https://twitter.com/April_hrm
作成日時：2022年10月13日 0時
