煙草の話。【松田陣平】

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家に帰ると、お母さんが玄関の前で仁王立ちしていた。たあいま、と回らない舌で言えば遅い、と怒られた。遅くなる時はなにか連絡しろと、店を継ぐ時に作られた数々掟に新しいのが追加された。




一晩明けて、午前8時。
タバコ屋のシャッターを開けて、エプロンを身につけて。
流れ作業の如く、昨日箱に入れた煙草達を次々手に持ち、棚に詰め込んでゆく。何となく手を伸ばし掴んだのがマールボロだったと知ると、一瞬動きが鈍った。たった１日で、マールボロを見る度松田さんが連想されてしまうようになった。
それはまるで、大変浮かれた馬鹿らしい恋のようだった。



ところで、今日も彼は来てくれるのだろうか。レジ下にある大量の紙から1枚取りだしながら彼の昨日の発言を疑うようなことを考える。煙草の番号はここに書いてくださいと慣れた手つきで紙の上の方に書いた。今日は今のところ、ここの路地裏を通る人は見ない。彼は朝来るのか。はたまた夜来るのか。そのどちらかが気になった。







"よぉ、"






5分程ガラスケースの上に肘を乗せて頬杖した体制で松田さんとお客さんを待っていると、開いた片手を頭くらいの高さで私に振りながら松田さんがこちらに向かってきた。






"元気だったか？"






私が会釈する前に、彼は肘を張って両手を握り、腕全体を上下に動かす。そして上に向けた手のひらを私にスっと差し出した。所々ぎこちない動きだったそれは、手話だった。実に初歩的な、手話だった。







"手話練習中なんですか？"






もう一枚レジの下から紙を取りだし、概ね返答が予想できる質問を書いてみせる。






"昨日から始めたんだよ、まだこれと最初にやった挨拶しか出来ねーけど"





彼はそう手帳に書いて、どこか恥ずかしそうに私から視線を逸らした。






"十分伝わりましたよ。"






"慰めはいらねぇよ"





"慰めじゃないです"





"ほんと？"





"ホントですよ"










"…なぁ、もし良かったら俺に手話教えてくれ"







迷うことなく、








"勿論です"

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