29 ページ29
「今日の佃煮に、実は全く入っていません。
しかもまだ若い葉ですから、辛味も控えめで食べやすいと思います」
「甘党に気を使ってくれたわけか」
「逆に辛くしたい時は、実を刻んで入れると良いそうです」
真衣が付け加えるより先に、教授が先回りをして言う。
「これも全部受け売りかね？」
「勿論そうです。
私自身は何も知らなくて、お恥ずかしい」
「なに、恥じる必要はない。
キミたちはこれからだろう。
私もこの年になって、学ぶことは本当に多い」
そう言った教授は、佃煮の小瓶を握ったまま、風の通る明るいリビングを見遣る。
その向こうのバルコニーも、たった1粒の種から増えた唐辛子も、空も雲も全部視界に入る。
眼鏡の奥の目が細まった。
「・・・一体何に怯えていたのだろうな、私は。
やましかったからか。
何も出来なかったからか」
「これから出来ることだって、きっと沢山あります」
余計な物を取り除いて綺麗にしたら、次は新しい養分を足す。
野菜の土も、それを育てる人も、そうやって新しいステージに入るのだろう。
「どうですか、教授。
いっそ新しい出会いを探されるとか」
「ちょっと美菜都ちゃん、それは調子乗り過ぎ」
不謹慎だと慌てる真衣だが、機嫌が良いらしい牧野教授は「それも良いな」と笑ってくれた。
しかしーー。
「あら、それは難しいんじゃありませんの？」
何故か次の瞬間から、教授は氷のように固まったのである。
ドアを開けて入ってきたのかーー磨き上げられたばかりのリビングルームに、黄色いサマースーツのご婦人が立っていた。
ハワイ・ホノルル空港のショッピングバックを片手に持ち直すと、空いた手でシャネルのサングラスをくいっと持ち上げる。
「帰りは明後日じゃなかったのかね、沙代子」
「それは前の予定だと申し上げました。
メールもご覧になりませんでしたの？」
「いや、そうだったかね」
「そうだったんですよ。
まったく、貴方ったら」
沙代子と呼ばれた女性は、呆れた調子で教授と話している。
対する教授は、ふらふらと視線が泳ぎ、酷く落ち着かない様子だ。
真衣たちとしても、ただ黙っているわけにはいかなかった。
「あの・・・教授。
この方は」
「・・・妻、だ」
何かに耐えるかのように、教授は声を絞り出す。
ーー奥様。
まさか黄泉の国から帰ってきたわけではないだろう。
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 7人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：井原 | 作成日時：2023年2月28日 3時
