冬の日 (ページ2)

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車の中には、オレンジの香りが充満していた。

ガソリンスタンドの従業員が、車内を掃除する時サービスで芳香剤を入れたらしい。

玄師は、芳香剤を断っていたな。

そういえば私をじっと見た道化の目は、玄師に似ていた気がする。

私は車の中で眠るのが好きだ。

夢を見られるし、懐かしい記憶を呼び起こせるから。

会社で腹の立つことがあったり、今までの失言の数々を思い出して頭を掻きむしりたくなった時、よく車内で眠る。

私が誘拐されたのは、10歳の冬だ。

玄師は、私を誘拐するつもりは毛頭もなかった筈だし、私も最後まで誘拐されているとは思っていなかった。

だがあの状況をひと言で言い表すと、結局はどうしても〝誘拐〟になってしまう。

後部座席で寝ていた私が、細やかな振動に気づいて身を起こすと、車はいつの間にか走り出していた。

車を運転していたのが見知らぬ男だったから、私は声を出せぬ程驚いたが、玄師も同じくらい驚いていた。

　
「げっ。
何で子供が乗ってんの。
キミ、ずっとそこにいた？」

「いた」

私は頷く。

丁度高速に入る所で、玄師はバックミラーを通して私を見た。

「ちょっと大人しく座ってて」

ゲートにいた中年男性から、彼は「どうもー」と言ってチケットを受け取る。

高速は空いていて、玄師は追い越し車線に入ると、あとは殆どハンドルを動かさず滑らかに運転した。

「参ったねえ。
ちっとも気付かなかった。
どうしたもんかな」

ちっとも参った様子は無しに、玄師は言う。

車は西へ向かっているようだ。

「前、来る？」と聞かれ、私は頷いた。

恐怖は勿論あったけれど、飛び降りることも、誰かに助けを求めることもできない。

それならば、騒いだり泣いたりせず近くで話した方が、この得体の知れぬ男の情に訴えられるかもしれない。

そう計算したのだ。

「いきなり噛み付いたりしちゃ駄目だよ。キミも俺も死んじゃうからね」と玄師は笑った。

被っていた毛布を畳んで後部座席に残し、私はシフトレバーを跨いで助手席に移る。

シートベルトをしながら盗み見たところ、玄師は20歳そこらだろうと思った。

「名前は？」

「真衣」

「俺は玄師。
米津玄師っていうの」

玄師はハンドルを握りながらそう言った。