−191．百合の花 ページ19
▽
「A、さま。これを──」
サビかけた鍵が氷翠の手から漆葉に渡る。
「本当の禁書庫の鍵、です。
扉は書斎の…机の下に」
咳き込む氷翠。
漆葉は血の海から彼女の身体を起こして、支える。
『……そこには何があるの？』
何かを堪えて漆葉は問う。
「精霊術を……伝授する書が、ございます。
『精霊真界』。その基本型が、六つ」
『精霊術？』
「きっと、Aさまのお役に、立てるかと」
Aさまにならば、きっと。
氷翠はそう付け加えて、深呼吸しながら瞬きする。
「それから、Aさまが初めて
こちらへいらっしゃった時のお着物は、
常磐さまのお部屋の戸棚に……」
『私の制服ね。……わかった、ありがとう』
「──Aさま」
「氷翠？」
再び氷翠が漆葉の名を呼ぶ。
ほとんど消えそうな声で。
日が沈む。夜のベールが空を覆っていく。
これは、きっと最後の夜。
氷翠にとって。漆葉にとって。
その意味は違ったとしても、最後の。
「Aさま、どうか、常磐さまを」
───どうか救ってください。
きっと、最後まで孤独なあの人だけでも。せめて。
『氷翠──』
ゆっくりと閉ざされる新緑の瞳。
呼吸と鼓動はあっという間に、
彼女の体を置き去りにして消えていく。
ひとたび輝きを失った滑らかな銀の長髪が、
もう一度だけ淡く光り出す。
眩しい光はやがて氷翠の全身を包み込んで、
……あとに残ったのは、ほんの小さな。
赤黒く変色しかけた血溜まりに。
真っ白な百合の花だけが、ぽつんと落ちていた。
漆葉は重さを失った両手を握りしめる。
目元を拭ってみても、
指先に触れるのは乾いた肌の感触だけ。
涙は出なかった。
本当の置き土産──白百合の花を手に取って、
漆葉はそれを胸の前に引き寄せた。
彼女の託した小さな鍵をも手に、立ち上がる。
氷翠の言った通り、秘密の書斎の机の下に、
さらにもう一つ戸があった。
そこに無造作に投げ込まれた古書を
時間にせき立てられながら読み通して。
『精霊真界』、精霊術の基礎にして至高の術。
漆葉は六つの術それぞれの効果と発動法を、
素早く正確に、頭に叩き込んでいく。
漆葉は呪術師だ。精霊師ではない。
でも、今際の際の頼み事を無下にできるほど
彼女は冷たくなりきれない。
一通り覚え終えた漆葉は息をつく。
定まった彼女の瞳には今、
固い決意とともに、覚悟までもが映っていた。
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作者名：Sn | 作成日時：2022年2月25日 23時
