−190.香をだに残せ ページ18
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──今日この日。
時は再びさかのぼり、夕暮れの頃。
足音が遠ざかっていく。
二人分の、漆葉と常磐の足音。
暗闇に誘われるままに氷翠は目を閉じる。
もう二度と覚めない夢の中へ。
……ただ、ふと。
静かに部屋の戸を開く音が彼女の耳に届き、
氷翠はほんの少し瞼を上げた。
彼女を生み出した彼ではない。
けれど、そこに居たのは既に立ち去ったはずの──
「A、さま……?」
かすれる氷翠の声。
彼女──漆葉はそれを認めてすぐに駆け寄り、
氷翠の傍らへと膝をついた。
『氷翠さん、今……氷翠さん聞こえますか!?
すぐに治すから、もう少しだけ頑張って……!!』
「A、さま?
なぜ……? あの“Aさま”は──」
『あんなのは私に似せた精霊。
きっと彼は気づかないから……。
……それより、早く治療を!』
先程の無機質な偽物とは打って変わって
はっきりと焦りを見せる漆葉。
まるで自らの傷のように苦しげな表情には、
ほの暗い罪悪感までもが映っている。
──それは、お門違いな悔やみです。Aさま。
おびただしい血溜まりに沈む氷翠は、
そっと目を細めて、漆葉の手を押しとどめた。
「……いけません、
お召し物が汚れてしまいます」
『でも、』
「私はもう十分に生を
そのお気持ちだけでも、おそれ多いことです」
この雫代湖を外界から切り離す結界の核として、
言わば常磐の駒として誕生した氷翠。
彼女は常磐の意志に忠実であり続けた。どんな時も。
たとえ突然その命を絶たれようとも、
当の彼女はほんの少しも抵抗しなかった。
たった数か月の短い命。
けれど、その短い中でも、
氷翠はしっかりと常磐の本質を見抜いていた。
友人どころか、味方の一人もいない。
はじめから孤独を背負わされた寂しい人。
……そんな彼に寄り添う人が、きっと必要だった。
そこにあるべきは氷翠ではない。
どんなにそれを望もうと。
最良の伴侶はすぐに思い当たった。
類まれな才能を備えた、美しき青漆の君。
常磐にとっての最初で最良のパートナーとは、
漆葉に違いなかったのだ。
でも彼女の心にはもう、別の誰かが存在していた。
大きく開かれた未来が彼女にはあった。
──正義と氷翠の訴えの間で揺らぐ青漆。
その瞳の奥に強く灯った光を見て、
氷翠は自らの心を決めた。
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作者名:Sn | 作成日時:2022年2月25日 23時