万全を期す【mfmf】 ページ14
あ、キスしたい。
会ってまずそんなことを思った。初めて見るワンピースと、この間プレゼントした甘い香り。時間をかけてセットされたのだろう、複雑に編まれた髪。すべてが今日は、ボクのためだけにある。
健気な恋人を愛おしく思わない男が何処にいようか。
「……？ なに？」
「いや、なんでも……」
とはいえ、だ。
ここはデートの待ち合わせ場所。雑踏の最中。こんな往来で急にキスなんかしてみろ。良くて注目の的、最悪デジタルタトゥー案件だろう。なんて時代だ、令和。
だから抱き留めようと伸ばしたこの手は、ボクの気も知らないでくるんとした毛先を指に巻いている彼女と手を繋ぐことくらいしかできない。なんて無力。社会に抑圧されている。
世界中の恋人たちは、外でキスがしたくなったらどうしているんだろう。
ボクはもう頭の中がそういうことでいっぱいになっていた。お店で注文したコーヒーの味が思い出せない。それよりもパスタをくるくるとフォークに巻き付けて、寄せられた彼女の口元にしか目がいかない。赤いリップが白い肌に映えている。化粧とは偉大な文明だ。こんなにも劣情を唆るのだから。
あれ、ボクは何を頼んだんだっけ。まだ来てないのかな。それとももう食べ終わってしまったのかな。意識を取り戻すまでの記憶が、……彼女の姿しか、ない。
「ねぇ、聞いてる？」
じ、っと見ていた彼女の唇が、不満げに尖った。「えっと、なんだっけ」生憎ボクは突発的に嘘が言えなかった。「ごめん、ぬぼっとしてた」
「映画。楽しみだね」
「ああ、そう……だね……」
「……観たいって言ってた割に、あんまり乗り気じゃないね？」
「それとも体調でも悪い？」とグラスに口を付けて、ほんのりと移ったリップを拭う仕草がどうにも目に毒で。
映画なんて、よりにもよって過去のボクはなんて提案をしてくれたんだ。明るい所でもこれなのに、暗い所で隣に座って、しかも恋人同士におすすめで泣けると噂のラブロマンス？ 冗談じゃない、泣かれてもみろ、上向きの睫毛が涙で輝いて、その下に潤む瞳なんか、見たら……。
想像の上で本日六度目の己のキスシーンを、頭を振って霧散させる。
おうとも、意思の弱い男さ、ボクは。なんとでも言ってくれ、その度に反論してやる。彼女にも責任はあると。
「だ、大丈夫」
「本当に？ 無理そうだったらすぐ言うんだよ」
「ハイ……」
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 36人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：こより | 作成日時：2023年3月1日 21時
