六話 ページ7
その次の日は体調が悪いと電話で伝えて、バイトは休ませてもらった。
店長さんは快諾してくれ、夏風邪かと笑っていた。僕にはその笑い声が有り難かった。
特に何をする訳でもない。昨日できなかった宿題はしたけれど、後はただぼうとしていた。
朝も昼も何も食べる気は起こらなかった。空腹感はないし、作るのも面倒だった。
午後三時頃、騒がしい足音がしてドアが開いた。二人分の足音。少なくとも、一人ではない様だ。
「てめぇの……、で……わかって……」
怒号が混じってよく聞こえない。聞きたくなかったというのもあると思う。
ただそれは父親の声だった。
「うるさい……私……!」
こちらもよく聞こえなかった。金切り声、とでも言うのか、女性特有の高い声で叫ぶ様に言った。
これはナオミの声。
しばらく言い合いが続いていた。汚い言葉が飛び交う。親子とはこういうものなのだろうか。僕と母さんの間にこんな言葉はなかった。
……母さん。
もう思い出したくもなかった。
突然、さっきとは違う声が聞こえた。弱々しい悲鳴。もちろん、ナオミの。
それから、肌を打つ音が聞こえる。叩いているのだろう。
そして音が変わる。次はさっきより重い音だった。殴られているのだと察しがついた。
僕は何をするでもなく、呆然とその音を聞いていた。
ナオミを助けなければ、とも思えなかった。ただ耳に入って来るその音に耳をすませていた。
やがて音は止んだ。男は最後に一番汚い言葉を吐いて出て行った。
僕はやっと重い腰を上げた。もたれていた壁がすんなり背を離してくれたことを憎みたかった。
「ナオミ……」
返事はない。意を決してドアを開け、居間へ姿を現した。
ナオミは倒れていた。唇からは血を流し、顔は真っ赤だった。少し腫れていた。それなのに涙は浮かべず、佇む僕をその凪いだ海のような目で見つめていた。
「っあ、冷やさないと。腫れ、酷くなっちゃうよね。血も……、拭かないと」
僕は口だけを動かしていた。足が頑なに動かなかった。
「酷い男だよね。あんな奴。死ねば良いんだ」
本心ではあった。けれども、誰かに対して言う必要はないはずだった。
「僕の母さんを知らない?あの男は殺したなんて言ってたけど、嘘だろうし」
ナオミは何も言わない。僕も何も言えない。
彼女の瞳は凪ぎ、僕の瞳は荒れ狂っていたに違いない。
「殺しちゃいましょう、あんな男」
この言葉さえも、憎しみが籠っているとは思えなかった。
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