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東日本大震災
3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。地震発生時は仙台市のアイスリンク仙台で、先輩スケーターと貸切状態で練習中であり、四つん這いでスケート靴を履いたまま外へ避難した。佐倉本人やコーチやリンクメイトは無事であったが、佐倉の両親と兄の行方が分からなくなっていた。同リンクは被災して営業休止になり、自宅も大きな被害を受けたため避難所で10日間過ごした。佐倉の父と兄が3日後には別の避難所で見つかり合流した。3月12日にはベガルタ仙台のホーム開幕戦のハーフタイムに四大陸選手権銀メダルの報告会と花束贈呈が行われる予定だったが試合と共に全て中止となった。震災で多くの死者・行方不明者が発生し、佐倉の母もその1人であった。佐倉はスケートの事を考えている暇はなかったと話している。佐倉はでボランティアをしながら母の行方を探していた。その後祖父母の手助けのもと神奈川県に戻った。その後、祖父母宅で過ごしていたが4月9日に開催された兵庫県スケート連盟主催「東日本大震災チャリティー演技会 〜復興の街、神戸から〜」を見、「もっと有名になれば母の元に届く」と思い復帰を決意した。だが、拠点は神奈川県のままであった。
2019年に、母と思われる女性の遺体が他5名と共に見つかる。土石の下敷きになっており頭蓋骨を含め多数箇所が骨折していた。
2019年7月に「NEWS ZERO」にて遺体が見つかった5名の家族と共に宮城県に遺骨を持ち帰り、市役所にて死亡届を正式に提出した事を話し、インタビューにて「やっと会えた」と話し他の家族等と話すところも報道された。
2011-2012
9月にはネーベルホルン杯に出場し、シニアクラスの国際大会では初の優勝を果たす。ISUグランプリシリーズでは中国杯で4位に終わるも、続くロステレコム杯でグランプリシリーズ初優勝を果たし、ISUグランプリファイナル進出を決める。
復帰後初の全日本選手権では、ショートプログラムで4位と出遅れたが、フリースケーティングで1位となり総合3位、これにより自身初となる世界選手権代表に選出された。これにより自身初となる世界選手権代表に選出された。
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作者名:たぬ | 作成日時:2023年4月18日 22時