寒い ページ26
桜子は寒くてならない。
すぐそばに常に悠理海の体温や呼吸や声を感じて育ったので、それが全部なくなるということが感覚として理解できなかった。
暖かいコートを着ているけど、肌着は脱いでしまったような、そんな寒さを覚えていた。
食卓の隣の椅子に悠理海がいない。
隣の部屋のベッドは空っぽだ。
学校にも一人で行く。
遊ぶ時にも悠理海の声が聞こえてこない。
でも淋しそうな顔をするのは嫌だった。
パパやママを心配させたくない。
桜子は元気に通学したし、大好きなサッカーや卓球も頑張っていた。
が、内田夫妻は元気すぎる桜子のことをかえってとても心配し、目の届く限り見守っていた。
ある日、久しぶりに宮下が内田家に来た。
宮下は今はアメリカに拠点を置いており、再来年のカーネギーホールでのリサイタルの伴奏者として、何が何でも芙希を連れていくつもりで交渉に来ていた。
彼はもう3年先のスケジュールまで埋まっているような売れっ子だった。
それでもカーネギーとなるとまた別格だった。
その伴奏者はどうしても芙希でなければならないと考えていた。
宮下は自分と芙希の音の融合から生まれる、新しい音楽の誕生を信じていた。
宮下は悠理海がウィーンに行ってしまったことを聞いていた。
赤ちゃんの時からよく世話をしていた悠理海がここに居なくなったのは、宮下にとっても淋しいことだった。
彼はボランティアでしばしば世界の危険地域を回っていた。
どうしようもない悲惨さも目の当たりにしていた。
内田家に来て桜子や悠理海が喜んで自分に飛びついてきて、初めてこの平和を現実のものとして認識できていた。
ここに来るたびに彼も癒されていたのだ。
明るくふるまう桜子の目に隠し切れない痛みを見てとり、宮下はそっと話しかけた。
「桜子ちゃん、悠理海くんにはまた会えるよ。会うのを楽しみに待っていられるよ。
また会えるって素敵なことだよね」
誰でも言うような平凡な言葉だったが、宮下の言い方には桜子の心を解きほぐす何かがあった。
桜子の心にそうっと柔らかいものがあてがわれた。
気の強い桜子の唇が震え、耐えに耐えていたものが、どっとあふれ出た。
桜子は宮下にしがみついてわあわあ泣き叫んでいた。
父母にも吐き出せなかったものを、桜子が思い切り全部出し尽くすまで、宮下は優しく桜子の背中をなでていた。
(この子にもいつかわかる。生きてまた会えることのあたたかさが)
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作者名：夏葉 | 作成日時：2015年3月11日 21時
