方向 ページ35
その後、いくつか小さなコンサートに出る機会を得た。
若い子たちとのジョイントコンサートや、大学がらみのコンサートなどだ。
かつて芙希が誠実に献身した街の音楽会や、ボランティアで知り合った人たちの尽力によるものだった。
『愛される音楽家になりなさい』
デビュー前に教授に言われた言葉を、芙希は思い出していた。
復活を聞きつけた方面から芙希に地方でのリサイタルのオファーがあったが、さすがに無理だった。
まだまだ復活途上という感じだったし、突然子どもが・・・と言いかねない今の状況で、芙希は一発勝負の大きな舞台を引き受けることはできなかった。
ではCDで再デビューはどうかという話も出てきた。
それならやれるかもしれない。可能性はある。
前途は多難ではあるが、わずかずつではあるが、それでも確かに前進を始めた。
(方向は、間違ってないと思うんです)
芙希は教授に心の中で呼びかけていた。
コンサートピアニストにとって、舞台に実際に立ってカンを取り戻すことは大事だった。
芙希は小さな舞台でも真剣に全力を注ぎこんだ。
内田や子どもたちの時間を押し分けて練習時間を取っているのだということを、芙希は忘れることができなかった。
家庭を顧みず我を通せば、もっと早く階段を昇れたのかもしれない。
でも芙希にはそれはできなかった。
当然復帰はゆっくりとしたものになっていった。
それでも、人の心に心を伝えるピアノを弾きたいという願いは、確固たる決意として芙希の胸にあり続けた。
音楽を通じて愛の言葉を語り、悲しみを訴え、慰めをもたらし、思い出を残す。
どんな言語を使うよりも、芙希はピアノを介して多くの感動を表現しようとしている。
芙希は、本当の音楽家なのだろう。
そしてそれを理解してくれる人と出逢えたのは最大の幸運だった。
芙希も、理解され育てられるばかりでなく、人を愛することを知っていた。
それを知る人は、人生を信じることができる。
愛と誠実を信じられる人生は、幸せであった。
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作者名:夏葉 | 作成日時:2015年1月30日 13時