教授2 ページ25
教授の奥様はかつて有名なソプラノ歌手だった。
教授にお薬をあげて休ませてから、芙希に話しかけた。
「わたしね、息子が産まれて3年後に復帰したのよ。
1年後に予定していたリサイタルはキャンセルしたわ。
けっこう歌っていたつもりだったのよ。
でも声帯がまるでいう事を聞いてくれなかった。
声帯も筋肉の一つでね、ずっと厳しく鍛え続けてないと駄目なのよ。
育児って大変だし。
女性にとって出産を経て舞台に戻るのは、本当に難しいことよね」
夫人はやさしく芙希の腕を取った。
「でも息子を産んで本当に本当に良かったと思ってるわ!
彼は今は土木技師になって遠い国で橋を造ってる。
その国の人たちの暮らしを守ってる。
彼は私たちの誇りよ。
フキ、今後の幸せを祈ってるわ。またいらしてね。夫が喜ぶわ」
夫人は芙希にキスして見送ってくれた。
3年。
奥様は復帰に3年かかったとおっしゃった。
自分も、子どもたちに恵まれたことは、最大の幸運だったと思っている。
しかしこのまま音楽を終えてなんの後悔もないかと問われれば、後悔すると答えざるを得ない。
周りに育ててもらってここまできたものを、社会に対して何も還元しないのは無責任ではないかという気もした。
教授も奥様も、なぜ私が今日ここに来たかわかっていらしたのだ。
単なるお見舞いやご挨拶だけで来たのではないこと。
そして自分の迷いや悩みを知って、はなむけの言葉を贈って下さったのだ。
教授のおっしゃったとおりだ。
『弾き続けること』
現状を受け入れて、辛抱強く立ち向かうこと。
焦らず、できることから手をつけ、少しずつでも前進を続けることだ。
今はなまっていても、私には歌を歌う指がある。
私の心は歌を忘れてはいない。
答えは出た。
芙希の心は決まった。
はっきりと確認することができた。
芙希はそばで黙って立っている内田を見た。
内田も、芙希を見た。
かつてのように、しっかりと芙希の瞳の奥を覗き込んだ。
そして芙希の決心を正しく読み取った。
芙希の瞳にクリアでまっすぐな強い光がよみがえっていた。
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作者名:夏葉 | 作成日時:2015年1月30日 13時