ニーナ - 5 ページ5
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他人に自分の規範を押し付けてはならない。
自分の考えを、それが正しいかのように主張してはならない。
とうの昔に教わったはずのこんなお約束は、今の俺の頭から綺麗に消え失せていた。
代わりに入り込んだ彼女の情と熱は、留まることを知らず流れ行く。言葉は止まらない。Aは目を逸らさなかった。
「そもそも就活はどうしたんだよ。行きたいとこあるってお前言ってたじゃん」
大学2年の頃、確かに己の夢と共にそう語った彼女を俺は未だ覚えている。
化粧っ気のない顔で、ただ理想を並べ立て、それでも楽しそうに笑っていたAを。俺はふと愛嬌のある奴だと思って。
「彼氏も彼氏でおかしいだろ。自分の恋人に風俗強要するって、倫理的に間違ってんじゃん」
純粋でウブで恋愛に興味がなくって、ただひたすらに勉強熱心だった彼女こそが、俺の中でのAなのだ。
恋愛なんて二の次で、何より友達が大事で、当て付けに男勝りだと評されていたAが。俺の大学時代の友人は。
「………、俺の知ってるAは、そんな男と付き合うような奴じゃねえ。」
何事にもひたむきで一生懸命で、前だけを向いていた様な。
そんな、周りさえも一緒になって笑顔にしてしまう、俺の理想の人間だったはずで。
「………」
数度口を開閉させ、何かを言おうとしていたAは今度こそ口を閉じた。
腕の震えは未だ収まっていない。
瞳は瞬きの一つもせず、俺を見つめて離さなかった。
空白が、いくつ続いただろう。
数えるのさえ億劫になった頃、Aはようやっと口を開いて瞬きをし。
震える右の手を左の手に重ねたならば、きゅうと眉を寄せたのだ。
「…………さい、」
音になる前に空気で溶けた言葉。
「え?」と尋ね返すよりも先、Aはよりまた息を吸って。
「────……うるさい。」
そう、はっきり、紡ぎ直した。
固まった俺の身体。
予想だにしていなかった返事に、頭の奥の何かが冷える感覚がして。
「……私のことなんて何も知らないくせに、偉そうなこと言わないで。」
大学時代から数えても、恐らくこれが初めてだった。
「は、………」
語気の強い言葉、視線、震える口角。
初めて俺は、理想の人間たるAに敵意らしい敵意を向けられた。
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r(プロフ) - コメント失礼いたします。ひっそりと『マリア・テレジアへ賛美歌を』のAルート/Bルートお待ちしております……! (2022年5月8日 13時) (レス) id: 4f9004a1a0 (このIDを非表示/違反報告)
まるまいん - はじめまして、本日初めて作品を知りシリーズを最初から最後まで全て読ませていただきました。登場人物のリアリティー、簡潔ながらわかりやすい描写と気になるストーリー構成、どれもとても魅力的でした。続きも楽しみにしております。 (2022年4月25日 4時) (レス) id: 3aac2cf622 (このIDを非表示/違反報告)
みゃお - 初めてコメントします!どのお話も本当に引き込まれて大好きです…!ラブレターには名を記せの続編がどうしても読みたいので、いつか書いていただけたらと思います。よろしくお願いいたします! (2022年4月18日 0時) (レス) @page21 id: d140b06251 (このIDを非表示/違反報告)
ねこ - 更新されていてびっくりしました…! これからも応援させて頂きます。 (2022年4月1日 0時) (レス) id: db21360bfa (このIDを非表示/違反報告)
凪(プロフ) - 良質な読みものに心臓がドカドカする感覚をものすごく久しぶりに味わって感動しています…これからも楽しみにしています!!どうかご無理はなさらず!! (2022年3月31日 0時) (レス) @page33 id: 86acd73901 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:290円 | 作成日時:2020年10月24日 6時