2019年5月26日 ページ18
「佐紀子さんは…帰ってくるよな?」
典子が買い出しに出たため、離れにはエミに授乳中の真理恵と理貴しかいない。 彼は器用に授乳ケープを被った妹に、いつになく弱気な姿を見せている。
「え、まだ見つかっていないの?」
どこに行っちゃったのよ、とぼやく真理恵。 煮え切らない彼女に対して焦りを隠せない理貴。 これでも40歳と34歳のアラフォー兄妹である。
「まさか…おれのプロポーズが嫌だったのか…!?」
「プロ!?」
何も知らない妹を相手に理貴が語った話は、腰を抜かすには十分であった。
「また殿下がお部屋の外で食事を取ることができるなんて…」
「お櫻
富士見町4丁目の日本家屋の女中だった櫻が5丁目の大邸宅に看護婦として入って3日が経った。 神経過敏になった主人は彼女が来てからというものの、もとの溌剌さを取り戻している。 今までは部屋から出ない日もあったが、昨日今日と庭に出て看護婦と戯れる時間が増えた。 主人が健康になり、いよいよ櫻を華族令嬢ということにして縁談をまとめようという声もちらほら聞こえてくる。
「わたくしは長いこといられん身なのに…」
櫻──こと佐紀子の本来生きる路は20世紀であるが、その路を外して生きてきた19年がある。 川上佐紀子が生きてきた19年には、大切なものが溢れんばかりに積もっている。 拍子でタイムトラベルして愛する人と再会しても、そちらを捨てることはできないのだ。
「河原さんも、ああ言うてはったし…」
櫻は主人の隣に与えられた部屋で汚した着物を着替えていた。 一女中、一看護婦に与えられる部屋にしてはあまりにも立派なこの部屋は──かつて、佐紀子女王が短い新婚生活を送った部屋。 結婚後半年も経たずに、夫の職場である横須賀に近い鎌倉別邸で暮らすようになった。
家の者も櫻があまりにも佐紀子に似すぎていると思っている。 しかし最初からこの待遇は無いだろう、と彼女は思う。 気づけば彼女は長襦袢を着たまま、鏡台に向かって立ち尽くしていた。 外からはさきこ、さきこと呼ぶ声が聞こえる。
「佐紀子ー」
「へ、へえっ」
しまった、佐紀子と呼ばれて思わず返事を返してしまった。 脳の整理が追いついた時は時既に遅く、櫻は主人の腕の中にいた。
THE END
『求婚』
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