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Side S
珍しく、少し遅れて大野はやってきた。
言葉にこそ出さないが、機嫌が良くないのが雰囲気でわかる。
昨夜はいつになくアルコールが入っていたから、体調も良くないのかもしれない。
しかし、あえて櫻井は尋ねたりはしなかった。
何か言えば、大野の不機嫌を助長することになりかねない。
今日は他にも不安要素があった。
どうも、いつにも増して客が騒がしいのだ。
芸人の気が上がるようなノリの良さではなく、何とも落ち着かない、やりにくそうな雰囲気が漂っている。
２人の漫才はウケないのが普通だった。
元々モノマネを目当てに来ている客には漫才など…しかも、彼らの拙い漫才など…どうでもよい代物なのだ。
中には酔った勢いで、容赦ない野次を飛ばす客もいる。
『引っ込め！』と言われるくらいはかわいい方だった。
大野は淡々と、今日のネタの最終確認を進める。
「ツッコむタイミング、間違えんなよ」
それが最後の念押し。
「智くん」
「何？」
ちらと無感情な目が櫻井を捉えた。
「あ…その、今日の客、ちょっとノリ悪そうな感じだから」
「そんなのいつものことじゃんか」
「…そうだけど」
大野の視線が舞台に注がれる。
そろそろ自分たちの出番が回ってくる。
もう逃げられない。
…逃げられない？
櫻井は目を見開いた。
いったいいつから、自分は“逃げる”などという言葉を使うようになったのか。
櫻井にとって、逃げることは負けを意味していた。
だから負けず嫌いな櫻井にとって、“逃げる”という言葉は一番遠い言葉だったはずなのだ。
大野だけではないのか。
自分もこの現状に、本当は毒されつつあるのか。
だが、それを大野に知られるわけにはいかない。
大野だけには。
「翔くん、行くぞ」
大野の声が櫻井を引き戻した。
舞台に足を踏み出すまで、２人とも一度も笑うことはなかった。
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作者名：ありはる
| 作成日時：2015年11月12日 22時
