30話 ページ32
墨汁でも垂らした様な夜の廊下で、寒さに震えた肩を自身で抱きしめる。自分以外、あとひとつ床鳴りを見つけた。
「麻、ここにいたのか」
「山姥切！」
背後からかけられた声に、勢いよく振り返る。強い月光を受けた白い布が目に眩しい。
「探していたんだ、執務室にもいなかったから｣
山姥切はさも安心したとでもいうように、天色の瞳を細め、口に微笑を湛えた。
「なに、探していたのはこっちよ」
唇を尖らせると、口の中でぼそりと呟く。声にならないほど小さいが、山姥切には聞こえたようだ。こちらに目線を向けてくる。
「探していたのか？」
強がりが馬鹿らしくなってきて、「そうよ」とやけくそに答えた。山姥切は小さく笑って、「そうか」と言った。力の抜けた表情だ。
執務室にはすぐに着く。廊下に座り、番をしようとする山姥切に、中に入るよう促した。
「麻、あまり人を入れないほうがいい」
「あなたならいい、今更よ」
渋い顔をしながらも、山姥切は素直に従った。敷いていた布団を軽くたたみ、私はその上に座った。少し離れたところに、山姥切も正座した。考えていたことが、あったのだ−−。
刀として、人間として愛しい彼の、名を呼んだ。行灯の光を受けて、きらと輝く瞳と目が合った。
「山姥切国広、言いたいことがあるの」
重々しい声が、執務室に響く。手元の布団を強く握る。寒いくらいなのに、うなじに汗が伝った。
「麻、爪が伸びている。危険だから切ろう」
心をきめて、口を開いた時、被せるように山姥切はそう言った。したばかりの正座を崩す。右足から立ち上がって。
書机に近寄ると、棚から小さな鋏と書き損じた紙を取り出した。その二つを持って、投げ出された私の足下に座り込む。
「え、山姥切。別にいいよ、そんなこと」
少々面食らいながらも、行動を窘める。「麻、いいから」そう名前を呼ばれると、断るのもおかしな気がしてきてしまい、させておくことにした。
素足に優しく触れられ、傅く姿はまるで御伽噺の中のようだ。普段は私より高いところにある頭を、見下ろす。
「だれかに爪を切ってもらうのって、初めて」
「俺も誰かのを切るのは初めてだ」
それだけ話すと静寂が落ちるけれど、決して息苦しくはない。むしろ酸素が体によく周る気がした。身体中の空気を吐き切るみたいに、ゆっくりとため息をついた。
「山姥切、前線に行こうと思う」
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 59人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
