真夏の月 (ページ6)

今日:12 hit、昨日:3 hit、合計:5,565 hit

6 ページ6

トントン、シャカシャカ、と彼女が料理をする小気味いい音が響く。申し訳程度の設備のキッチンでも手際よく進める姿から、料理をするというのは本当なのだろう。しかし相変わらず現実感が欠けている。それは例えば絵画の中の人物やどこかの国の王族なんかがうちの台所に立っているような奇妙さだった。

「そんなに見て何？食べられないものでも入ってた？」
「いや、旨そう。これあんたの好物？」
「まあまあ好きだよ。簡単にできるとこも好き」

溶き卵を熱したフライパンの上でふわふわに仕上げ、さっき炒めたトマトと牛肉を戻す。醤油のような調味料を入れ片栗粉でとろみをつけたら美味しそうな料理が完成した。初めて見るそれは中国の家庭料理らしい。

「行ったことないから本当かは分からないけど」
中国に行ったことのない彼女が作る中国の家庭料理は大変に美味しかった。ていうか無条件に美味しいに決まってるだろ、女の子の手料理なんて。

「さっき好きな料理聞いたけど、」
「うん」
「好きな食べ物は？」
「ん、これと言ったものは特に」
「じゃあ好きな曲」
「沢山あるな」
「好きなタイプ」
「考えたこともなかった」
「まじか。好きな映画のジャンル」
「恋愛物はあんまり、かな」
「そうだろうね」
「でもよく覚えてるものはあるよ」

と言って、彼女はある映画について話した。避暑地で出会った二人の若者の物語。タイトルは忘れてしまったと。北イタリアを舞台にしたその映画について彼女は建物と風景の美しさに見とれて内容をよく覚えていないというので、ふと彼女の有機的なものへと向ける感情の遠さを悟ってしまう。

「避暑地でロマンスか。俺はこのコンクリートジャングルでいいから何か夏らしいことがしたいわ」
「どんな？」
「普通にプール行くとか。あんたは何かしたいことないの？毎日仕事ばっかりじゃん」
「日差しは苦手で、夏は家の中にいるのが好きなんだ。でも、きみはきっと太陽の下にいるのが似合うね」

夜にしかきみを見ないのだけど、と彼女が柔らかく笑った瞬間、俺は彼女への恋心を自覚した。彼女がそういう感情とかけ離れたところにいると知った直後の事だった。

「あんたは夜が似合う」

そう、太陽の去った夜の空にひとり浮かぶ孤独な月のように。悠然と佇む、地上の人間には手の届かない存在。しかしこの美しい月はいま、世界でただ一人俺だけを照らしている。その事実はどうしようもなく俺を欲深くさせた。