一章 夜凪景 ページ2
幼い頃、嫌いになった事、物というのは、大きくなっても、大人になっても苦手意識がある。トラウマ、というやつだろう。
だから、幼いうちは、その子が気になったことを全力で押していくのが良い。
と、Aは思っていた。己の実体験から。
お嬢様っ、という声が追いかけてくる。だが、その張本人は追いかけてこない。追いかけられない。歳だから。
Aは疾風のように坂を駆けていく。
にや、と笑いながら坂を降りていく彼女こそが、お嬢様、と呼ばれた本人である。しかし、その本人は、"お嬢様"とはかけ離れている、とよく言われる。
ダダダダっ、と足音を高らかに鳴らし、乳母から、家から逃げていく途中、自分の右手をチラ、と見た。右手には大学ノートとペンケースがしっかりと、握られている。
彼女がもし、「大切なものを無人島に持っていくとしたら、何を持っていきますか？」と言われたら、きっとそれらを持っていく、と答えるだろう。
乳母から完全に逃げ切れ、Aは家から一駅向こうにある図書館の中で、一息をついていた。ハァ、と息を吸えばエアコンで冷えた空気が、暑くなった肺を満たす。それが心地良かった。
さて、と言わんばかりに先程取ってきた、黄ばんだ本と、自分で持ってきたノートを広げる。
そのノートの中は、今まで誰にも見せた事がないが、びっしりと細かい字で埋め尽くされていた。ーーーーこれは全て、彼女が今までずっと、一人でこっそりと書き溜めてきた物である。
そこから先、Aは目と手しか意識的に動かさなかった。カリカリと、ペンで書き連ねる音だけが図書館に小さく響いた。
「もし……。もし、お姉さん」
「あっ、はいっ！」
Aは肩をビクつかせた。振り向けば、眉を寄せてエプロンを着た女性が立っている。ーーーー図書館職員だ。
「申し訳ありませんけど、もう閉館時間です」
「えっ？」
あ、と言いながら周りを見れば、確かに図書館は、斜陽で蜂蜜色になっている。
すみません……、とペンを片付けながら肩を竦める。またやってしまった。
いつもこうだ。好きな事、趣味のことをしていると、時間を本当に忘れてしまう。自分の悪い癖だと分かっているのだが、中々治せない。
Aがこそこそと図書館の扉をくぐって出た、次の瞬間、般若顔のお姉さんによって鍵がガチャリと音を立てた。
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作者名：もののふけ | 作成日時：2020年8月2日 10時
