5話 ページ8
力の抜けたため息とともに彼女が告げると、長官は満足げに頷いた。きっと今日の退勤後にカレーの材料を調達して帰るのだろう……そんなどうでもいいようなことが頭の隅によぎる。
局長室を辞し、人の気配がない廊下までしばらく進んで、Aはふと足を止めた。
「ローレン・イロアス…………か」
閉じた目の裏に浮かぶのは、先ほどの任務概要書で目にした顔写真だ。
エデンでも珍しい紫がかった赤髪に、海の色を思わせるような青みがかったグリーンの目。
確かに覚えている。あの日寝転がっていた砂埃まみれの地面から身を起こして、ぽつりと名乗ってみせた彼の姿を。……忘れるはずもなかった。スラムのあの少年と瓜二つだ。
極めつけは"ローレン"という名前。同姓同名の別人──という可能性も無いとは言い切れないが、おそらく確率は限りなく低い。
今日何度目かのため息をついて、暗い天井を仰ぐ。
──昔馴染みで、監視対象で、初恋の男の子。
「……最悪だ」
何があっても絶対にぼろを出してはならない。もはや今の自分はただのAではなく、治安維持諜報隊隊員のA・リューグナーなのだから。
しかし──しかしである。幼い頃に蓋をした初恋の人相手に、果たして自分は演じきれるだろうか。否、演じきらなければならない。任務遂行の失敗は、すなわち多くの人を危険に巻き込む。自分だけが痛い目を見るのであればまだ良い方で、今回の事案の重大さからして、最悪の場合エデンそのものに混乱をもたらしかねない。
ぞっと背筋に冷たいものが走って、彼女は自然と帽子のつばに手をかけ、ぐっと目深に引き下ろした。
失敗は許されない。
別人になりきらなければならない。
Aではなく、ライラとして。昔馴染みではなく、初対面の赤の他人として。
どれほど彼を傷つけることになろうとも、この嘘は必ず貫き通さなければならない。
やがてゆっくりと顔を上げた彼女の目は、まるで冬の夜の満月のように冷たく鋭く輝いた。
「まずは……オーディションの情報収集からだな」
任務概要書にはひとつの企業の名前が記されていた。エデンのものではない、リアルワールドの企業名だ。おそらくそこにも諜報隊の工作員がすでに紛れ込んでいるのだろうが、それをどれほどあてにできるのかもまだわからない。まずは対象に接近するため、しばらくは地道な作業が必要とされるだろう。
人けのない、静かな廊下を、彼女は足音も立てずに去っていった。
72人がお気に入り
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:七福 | 作成日時:2024年3月9日 16時