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月世界のマネージャーの健吉とは、ちょうど1年前に知り合った。
ボーイのアルバイトに応募したひかるを面接したのが健吉だった。
黒いスーツに蝶ネクタイの健吉は誤字だらけのひかるの応募書類を見て「学校は?」と短く尋ねた。
親から養育放棄されていたひかるは、義務教育すらまともに受けていない。
読み書きもろくに出来ず、体を売って生きてきたひかるだったが、華やかな月世界の店構えに憧れて、生まれて初めて“まともな仕事”に就こうとしたのだった。
「家の都合で……学校には行ってないんです。でも一生懸命に働きます」
健吉は鋭い目でひかるを見つめていたが、「16時から翌朝7時までの勤務だ。制服は貸してやるが靴は自前だ。黒の革靴があるか?」とひかるの足元に目を落とす。
ひかるは履き古したスニーカーを履いていた。
水商売とはいえ、政治家や有名人が出入りする月世界にはおれなんか相応しくないんだ。
肩を縮こませたひかるに、健吉は「貸してやる」とぶっきらぼうに言った。
「……靴は俺のを貸してやる。明日から来い。遅れんなよ」
「あ、ありがとうございます!おれ、がんばります!」
採用されたんだ。
嬉しさに思わず立ち上がって頭を下げたひかるの律儀さに、初めて健吉が微かに笑みを浮かべた。
「頑張れよ」
その優しい声に、ひかるは胸を熱くしたのだ──。
錆びた階段をあがり、ドアノブに手をかける。
……カギがかかっていた。
「出かけちゃったんだ」
せっかく今夜は揚げたてコロッケを一緒に食べようと思っていたのに。
アロエの鉢の下に隠してあるカギを取り出し、西日の差す1人の部屋に帰る。
健吉から借りたままの黒い革靴がひっそり靴箱の上に置いてある。
今まで1人を寂しいと思ったことはなかった。
1人を寂しいと思った時、ひかるは初めて健吉を愛していることに気がついたのだ。
西日の眩しさに眼を細めながら、慎ましい台所に立つ。
いつ帰るかわからない人のため、ひかるは食事を作り始めた。
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しろくま(プロフ) - ◇さん» ◇さま、コメントありがとうございます。お褒めいただき嬉しく思います。今日は2人の結婚記念日でもあります。ステキなクリスマスをお過ごし下さい。 (2022年12月25日 7時) (レス) @page49 id: d7e22074ad (このIDを非表示/違反報告)
◇(プロフ) - 最終話のタイトル回収があまりにも美しくて…。執筆お疲れ様でした!次回作も心待ちにしております (2022年12月24日 2時) (レス) @page48 id: 3e4ffd633a (このIDを非表示/違反報告)
しろくま(プロフ) - 9さん» その涙はひかちゃんのハンドタオルで拭いて差し上げます🥰 (2022年10月24日 13時) (レス) @page44 id: d7e22074ad (このIDを非表示/違反報告)
9(プロフ) - …滂沱……最高です! (2022年10月24日 9時) (レス) @page44 id: a1a90f72f9 (このIDを非表示/違反報告)
しろくま(プロフ) - ちちちさん» ちちち様、ありがとうございます。どうしても薄暗い健吉ひかる…。次は甘々の二人を!!! (2022年7月27日 8時) (レス) @page35 id: d7e22074ad (このIDを非表示/違反報告)
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