境 界 線 【ybhk】

。。 ページ9

.


芸能界の友達以上に、地元の友達とのつながりを大事にするのは、いつでも普通の人に戻ることができるという安心感のためだ。

大人に言われるまま舞台に上がり、テレビの前でマイクを握り、カメラの前で笑顔を作ってきた俺は、生活の中心を芸能活動におきながらも、漠然といつでも辞めていいと考えていた。
高校生のうちにデビューできないのなら、早く見切りをつけて普通の人に戻り、進学して就職したほうが堅実だと思っていたし、みんなの前で歌ったり踊ったりすることは好きだったけれど、普通の人というのも悪くない。
もともと自分からタレントになりたいと事務所入りしたわけではないのだから。
……これも、デビューできなかった時の言い訳か。

熱いシャワーを頭から浴びながら、俺は光のことを考える。

光は早くから芸能界に自分で入ると決めて、事務所に応募している。
芸能活動のためにどうするべきかを考えて生きている節がある。
大好きな仙台から東京に引っ越すという決断は、もう普通の人には戻らないという光の強い意志の証だ。

俺は普通に戻ってもいい。
光は普通に戻らないだろう。

芸能界だけで生きていくのならば、ここで光に「好き」と言って普通の枠からはみ出したってかまわない。
だけど、俺は“普通”でいたかった。

桜を見ているうちに変な気分になっただけ。
光に誘われて即興劇(エチュード)をしただけ。
ちょっとしたハプニングで、ちょっとえっちな感じになっただけ。
女の子を相手にできなくて、欲求不満だっただけ。
『手術ごっこ』みたいにじゃれあっただけ。



その証拠に、この浴室を出ていけば、きっと光はいつもの態度に戻っているに決まってる。


幾つものズルい言い訳を思い浮かべながら、浴室を後にした。

脱衣場には床に脱ぎ散らかしたはずの洋服はなくて、ふわふわのバスタオルときちんと畳んだ黒いジャージの上下が新品の下着と一緒に揃えてあった。
ざっと身体を拭いて着替え、髪を手荒く乾かしてリビングへ向かった。

「着替え、ありがと」
キッチンで何か作っている光に言うと、やつは一瞬だけ顔を上げて頷き、また視線を落とす。
カウンター越しに覗くと、玉ねぎやらニンジンがみじん切りにされている。
「何作ってんの」
「……チャーハン」

素っ気なく答えた光に、俺はほっとする。
いつものぶっきらぼうな光だ。
やっぱり、あれはほんのお遊びで、ただの悪ふざけとして忘れていいんだ。

。。→←。。

→ 目次へ｜作品を作る｜感想を書く
他の作品を探す