page5 ページ8
·
何かをつたえようとしているようだが、紫に変色した唇の間からは、死人のような呻き声だけが聞こえる。唖然とする義理父の前で、少年は瀕死の病人のように喘いでいた。
「ず………みま……せっ」
やっと聞き取れた謝罪の言葉を前に、男は憤怒に頬を紅潮させて激高した。全身が不意の振動に侵されている少年は、錯乱した意識の中、男の暴力をすり抜けて、極端にぎこち無い足取りで逃げ出した。閉まりかけたドアを乱雑に開き、褐色の照明に照らされた廊下に転がるような有様で飛び出し、何度か壁にぶつかりながら、長く果てしない廊下を駆け抜ける。足を早く動かそうとする度に、心臓と肺が締め付けられるような圧迫感が増してゆくのを錯乱した意識の中からはっきりと感じ取っていた。未だ治まらぬ嘔吐感が傷み切った胃を掻き混ぜ、胃液が流れ出た喉は息をする度に焼けるような痛みが走る。唾を上手く飲み込むことも、呼吸の仕方も、身体が忘れてしまったかのように融通が効かず、廊下を駆ける途中で何度か噎せ返った。左腹部が猛烈に痛い。平衡感覚の定まらない視界に、激烈な頭痛が走る。ハイル少年が、これほどまでに、廊下から玄関への道のりが遠く感じたのはこれが初めての出来事であった。
玄関の扉の前に近づくと、走る速度を微塵も落とさずに、豪勢なドアノブに手をかけて、突き飛ばすように開く。石の地面を蹴り、門の扉に体当たりするかのように豪邸の牢獄を飛び出した。
────ドスッ
何かにぶつかった鈍い音と共に、煉瓦の地面にストロベリーブロンドの少年は尻もちを着きかけた。朦朧とした意識の中、早急に衝撃でずり落ちた白い眼帯を元あるべき位置に戻し、それを押さえたまま、自身が体を衝突させたモノを見上げる。
見慣れぬ軍服のようなコート、その姿全身を覆う黒には所々に金色の装飾が施されていた。
「大丈夫かい…」
衝突した反動で後方に倒れつつあった少年の、くり抜かれた流木のように軽い身体を優しく支えた当人は、至極平坦で、それでいて何処か穏やかな口調で言った。
美しい声だった──────。少年にとって、その一声は今まで吐き付けられてきたどんな罵声や暴力よりも、純潔で、単純で、清らかな声だった。それに、人の肌に触れたのは何時ぶりだっただろう。ましてや、倒れかける自分の身体を受け止めてくれる温かさなど、生来一度も感じたことが無い。
·
8人がお気に入り
この作品を見ている人にオススメ
「オリジナル」関連の作品
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:ワッさん | 作者ホームページ:http://img.u.nosv.org/user/0301enmakun
作成日時:2021年4月10日 17時