Adonisは春を呼び3 ページ11
夕食を食べ終え、食後にお茶を飲むと、眼鏡はさくさくと帰ってしまった。今日ばかりは仕方がない。
眼鏡には明日、家族と会う予定があるのだ。顎髭が倒れたときに贈った贈り物が好評で、よかったら定期的に会わないか、という提案が来たのだ。
顎髭はもちろん、快く送り出した。顔には出ないが、眼鏡は楽しんでいるのだろう。毎回その翌日には、ぽつりぽつりと今日は孫に手袋を買っただの、レストランで出てきた肉が美味かっただの、何かしら一言二言、報告するのだ。
「マスターはさあ」
白湯の入ったマグカップを柔らかく握りながら、顎髭が問う。まあ、問いかける相手である彼は、Zionを閉めてから、もうマスターではなくなったのだが、長年の癖とは抜けないもので、どれだけ言い直そうとしても駄目で、もうずっとマスターでいいですよ、とマスターが折れてくれた。
「家族とかに憧れたりしないの?」
眼鏡がたびたび、何か理由をつけて、顎髭とマスターを二人にするのにはちゃんと理由があった。顎髭とマスターでしかできない話がある。それに、顎髭とマスターで話せるのは、ここがZionじゃないからこそ、だ。Zionではどうしても、客と店主という立場に分かれてしまうから。
家族というものに関して、家族を持たないことで出る生活感、というのは顎髭とマスターに共通するところがあるが、羨望という点では価値観が違うことを薄々感じていた。
マスターは自分の価値観を語ることが顎髭の価値観を否定することになり得るとでも思っていたのか、苦々しく笑う。
「聞きたいです?」
顎髭はふっと笑った。
「聞きたくなかったらこんな話しないよ」
それもそうですね、と笑ってから、マスターは紡いだ。
「私は家族のことを、よく覚えていないんです。けれど、寂しかったと思うことはありません」
にこりと晴れやかに笑う。
「いつも周りに誰かしらいたので」
それは家族ではなかった。Zionのお客さまだった。けれど、酒が飲めなくても彼らは幼いマスターに寄り添ってくれたし、Zionは最後まで客に愛されていた、と。
そのことを誇りに思う、とマスターは堂々としていた。
「私の人生は概ね幸せだったと思います。もちろん、殺人事件が起きた店、という形で閉店したのは残念でしたが……それでも、あなた方との縁は続いていますから」
寂しくないんです、と語るマスターに、強い人だなあ、と顎髭は返した。
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作者名:九JACK | 作成日時:2021年2月27日 3時