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「……元ね」
忠義くんの抜け落ちた言葉を補足した。
どっちにしても、ゆきちゃんの驚いた顔は変わらない。
店を開いてしばらく経った頃、忠義くんがここに初めて来た時は心底驚いた。
忠義くんの側を離れる事、簡単に決めたわけじゃなかったし、それはきっと忠義くんも同じだと思っていた。
それなのに当たり前のように現れて、ビールちょうだいと可愛く首を傾げて満足そうに笑ったから、少しの苛立ちすら覚えたくらいだ。
あの涙の夜は夢かなんかだったのかとしばらく頭を悩ませた。
それからというもの何故だかこの人は数ヶ月に一度定期的に現れる。
わざわざ連絡まで寄越して、メニューにはない鯛茶漬けを所望する。
そう、そうなのだ。
度々現れる忠義くんのせいで、夢のようなあの甘い日々を思い出して感傷に浸る時間は、見事に消え去ってしまったのだ。
「元、言うな」
「…今日はお休みなんですか?」
「わざとらしい敬語止めて」
「…もう。何しに来るの?」
「何って…たまの休みにお気に入りのお店に飯食いに来てるだけやん?」
「わざわざこんな田舎に来なくても都内にある美味しいお店腐るほど知ってるでしょ!」
「…Aの料理が1番美味しいんやもん」
それこそわざとらしくシュンとして、伺うように私を見上げた忠義くんは、出会った頃よりおじさんになってるはずなのに今日も可愛い。
可愛くて、ズルい。
相変わらず、絶対確信犯だ。
「なぁ、ビールちょうだい?」
「車でしょ?」
「泊めてくれたらええやん」
「無理」
「なんで?最初の時は泊めてくれたやん」
「それは忠義くんが車で来てる癖にビール飲んだから!」
車で来てるなんて知らなかったし、可愛く首を傾げられてつい癖で出しちゃったけど。
知らん顔して飲んだのも、飲酒運転で帰るで、と半分脅かしてきたのも忠義くん。
ちなみに名誉のために言っておくと、もちろん別々に寝たし、お互い指一本すら触れていない。
忠義くんは物凄く不満そうだったけど、そんなの当たり前だ。
「たまにはAと一緒に飲みたいー」
「無理無理。お客様とは飲みません」
「どの口が言うてんねん」
忠義くんと言い合っていると、こほんと小さく咳払いが聞こえる。
すっかりゆきちゃんがいるのを忘れていた。
「とりあえず、車、置いてくから」
「あ!ごめんごめん!ありがとね!」
ゆきちゃんが本来の目的を口にして立ち上がる。
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作者名:咲菜 | 作成日時:2022年8月16日 20時