forte ページ32
ピアノに触れている時間は、思うように動かない指に憤りを感じ、
ピアノから離れている時間は、不安と焦りで吐きそうになる。
弾けない…
弾けない…？
スランプ？…まさか。
このタイミングで？
カレンダーを見ると、コンクールまであと1週間だった。
ぐにゃ、とカレンダーの正方形が歪む。
時計を見ると、夜の10時を回っていた。
「…気持ちわる……」
座っているのも堪らなくて、ベッドに横になって息を吐いた。
最初は、16分音符をひとつ落としただけだった。
いつもは流れるように弾いてしまうフレーズの、16分音符たったひとつだ。
だけど、水面に落ちた雫が、円状に波紋を広げるように
俺が落とした16分音符は、音色も指の動きも抑揚も、引きずるように悪くしていった。
思うがままに動いていた指が、意志とは裏腹に止まったり
キープしていると思っていたテンポがずれていたり
べちゃりとした品のない音を奏でてしまったりするたびに
せり上がってくるような恐怖と焦りで、何度も吐いた。
なんだ
なんだこれは
どうなってる？
考えても考えても、浮かんでくるのは疑問ばかりで
具体的な解決策は出てこない。
ぐるぐると考えて、それが眩暈と区別できなくなった頃に
意識を飛ばすように眠りに落ちて
コンクールの悪夢を見るんだ。
.
ステージに出る。オレンジの明るい照明。
客席は暗くてよく見えないけど、黒い人影で全部埋まってる。
ピアノまで歩くとき、背中につう…と汗が流れるのを感じる。
自分の革靴の音だけがコツコツと響く。
不安な顔をしていないだろうか。ちゃんと微笑えているだろうか。
ピアノの前で一礼し、イスの高さを調節する。
一度座ってみて、あ、高い…、と思うのに
なぜか両手を鍵盤に添えてしまい、不安定な姿勢のまま演奏が始まる。
曲はなぜか毎回、ショパンの幻想即興曲で
速いパッセージに指が追い付かない。
焦って、焦って焦って
ぽた…と白鍵に汗が落ちる。
なんとか押し殺したピアニッシモで、だけど薬指がその汗を拾って滑った。
明らかに不協和音が一瞬鳴って、俺の背筋は凍り付く。
指も、凍り付く。
冷たい
冷たい
また、音符を落とした…
.
「ぁあっ……！」
もがくような自分の悲鳴で目が覚める。
両手がピアノを弾く形で空中に浮いていた。
「…はぁっ…、は…」
乱れた呼吸をなんとか整えると
寝汗で濡れたTシャツを脱いだ。
.
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作者名：きんにく
| 作成日時：2020年4月19日 0時
