それを恋と呼べぬまま【万葉】完結

三十 ページ31

医者が「戸を開けるから少し待っていろ！」と
窓から声を張る。


しかし拙者は、
それに返事をすることが出来なかった。





「A、……A？」





────Aの呼吸が止まっている。

ヒュッと喉が音を立て、頭が真っ白になった。




「A……？ そんな……っA、A！！」
「おい、代われ！」




駆けてきてくれたのであろう、
いつの間にか降りてきていた医者が
拙者を押しのけ、Aの様子を見るなり
「まずいな」と零す。


そこからはあまりに必死で、よく覚えていない。


医者の指示で拙者はAに人口呼吸をして、
医者が彼女の胸部を圧迫して、彼女は辛うじて
その後一度は何とか息を吹き返したが。
















「────……ご臨終です」











助からなかった。










「っ、大丈夫か」




ふらっと力が抜け、
膝から崩れ落ちた拙者の背を医者が擦る。


それから「すまない」と謝られて
しかし何も返せぬまま、目の前が霞むばかりで
何かを思うことも、感じることもままならなかった。



血が足りなかった。
彼女の血液型を知る者がいなかった。
調べる時間が足りなかった。

間に合わなかった。


救えなかった。




「……この子、君の身内かい」



医者が静かに尋ねる。
首を横に振り、彼女は孤児だ、と答えた。




「そうか。……それなら君は？」
「……ただの浪人でござる」




そう。
拙者はただ、
数日前に彼女と出会ったばかりの浪人。




医者に彼女の知り合いを尋ねられ、
藤川殿の名を答えた。

すると医者は心当たりがあったらしく、
「なるほど、桜庭の子か」と納得した。



もう外は白み始めている。
医者は藤川殿を呼んでくると言って家を出た。





拙者の手や服は、Aの血に塗れていた。

部屋の静寂が耳に痛い。





ふらふらと立ち上がり、
覚束無い足取りで寝台へ近付いて、
もう動かなくなった彼女の手を握る。



その手は随分と冷えていて。



そこでようやく、頬に涙が伝った。

いくら拭っても、次から次に溢れてくる。







無理矢理にでも連れ出していれば。

浪人をもっと警戒するよう、諭しておけば。


この感情に、名を付けていれば。




どれだけ後悔しても、
もう巻き返ることなどない。








桜が咲く前に彼女は散った。

明るくなった庭先で、春告鳥が飛び立っていく。










もう二度と、懐の鈴が鳴ることは無いのだろう。

結→←二十九

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