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「あっ、ちょ……大野さんっ」
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外に出て、日没後の涼んだ空気に、なるべく早く触れたくて、急いでフロントを通り過ぎようとしたら、くいっと軽く後ろに引っ張られた。
驚いて、掴まれた手首を払ってしまっても、その声の主は動揺を見せずに微笑んだ。
相葉だった。
「あ、ごめんなさいね、えっと……コッチコッチ」
今度はちょいちょいと手招きして、ロビーの奥にある狭い廊下に向かって歩いて行く。
すっと伸びた背筋について行くと、非常口らしい扉の前に着いた。
「出入口。フロントはダメですよ?騒がれますから」
あ…、と大野は思った。
つい昨日、旅館の出入りには この非常口を使うように教えられたのだった。
扉の上に緑の無機質なランプ。〈スタッフ専用通路〉と立札があるところを抜けてくる。
大野の借りている離れから、フロントやロビーを通らずに外に出ることができるように、相葉が配慮してくれたのだ。
それをすっかり忘れていた。
「湯めぐりですか?…そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
目線を合わせるように覗き込んでくれた顔があまりにも優しいのと、そわそわと急いていたことがバレたのとで、恥ずかしくなった大野は 肩をすくめて誤魔化した。
それを見て、相葉は可笑しそうに笑う。
「今日はけっこう賑わってるから、あんまり駅のほうまで行くのは止めた方がいいかもしれません。近いとこ……、『鴻の湯』とかどうかな」
鴻の湯。
いつも、街に出るときに通り過ぎていた、小さな湯屋だった。
「露天風呂の緑が素敵でさっぱりします。ちょっと熱いけど…」
相葉の笑顔は、向かい合う相手がどんな表情をしているかに寄らず一定に明るいようだった。
それと、初対面のときから、日を追うごとに砕けていく敬語も、彼の雰囲気と相まって心地が良かった。
着こなしていたスーツを、清潔なまま着崩していくような、親しみやすい話し方だった。
「そこに行く?」
熱い湯は、あまり好きではなかったけれど、大野の頭は、相葉に「?」と言われたら、こくりと頷くようになってしまっていた。ほとんど反射的に。
そうすれば、おおかたのことはスムーズに、いい方向に進むのだ。
少なくともこの場所においては。
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きんにく(プロフ) - 律さん» 律さん!こちらにも来ていただいて本当に幸せです〜ありがとうございます(泣)ご期待に添えるようなお話が書けたらなと思います! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - はるさん» はるさんはじめまして!お越しいただき誠にありがとうございます。そんなふうに言ってもらえて幸せです♪がんばります! (2021年1月8日 11時) (レス) id: d7e5080941 (このIDを非表示/違反報告)
律(プロフ) - やっぱりきんにくさんの小説が大好きです!癒しです!続き楽しみにしてます! (2021年1月6日 19時) (レス) id: 820f2de8f4 (このIDを非表示/違反報告)
はる(プロフ) - きんにくさん、初めまして。素敵なお話ありがとうございます。これからも楽しみにしています。 (2021年1月6日 11時) (レス) id: 6cd0f843d6 (このIDを非表示/違反報告)
きんにく(プロフ) - satominさん» satominさんありがとうございます♪毎度毎度、恐縮でございます。おおお…私が読んでる本は暗くて長くて素敵な本です(笑)その人たちみたいに書けたらなあと思いながらなかなか…な日々です(笑)嬉しいことを聞いてくださってありがとうございました♪ (2020年12月28日 23時) (レス) id: 3c003d42b5 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:きんにく | 作成日時:2020年10月19日 16時