花を想ふ【ARS/山/ｵｵﾐﾔ】

柚 ページ25

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櫻井が置いて行った、その一行を、肩まで湯に浸かりながら


大野はしばらく眺めていた。



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【うれし城の崎 身にしみじみと湯のかをり 都はなれた 湯の都】



かをり、と書くのは、香り、だろうか。


目の前で揺れる湯の波を、そっと両手で掬い取ってみる。

それを鼻先に近づけたら、ふわりと、柑橘の香りが掠めた。



(…ゆず、)



その香りはどうやっても、心を安らげるようにできていた。

力の抜けた指の間から、ぽとぽとと雫が還っていく音も、それを助長して


首までかくんと力が抜けたようになって、大野は縁のほうへ頭を預けた。



(…気持ちい……)



湯の中から手を持ち上げるたびに、ととと…と鳴る、雫の音が、耳を心地よく撫でる。


風に揺れた木の、葉と葉がさらさらとぶつかる音。

ちいさな鳥のさえずり、ぴい、という、鳶の鳴き声。



静かだと思っていたけれど、案外、にぎやかだと思う。




都はなれた、湯の都。




大野は目を閉じた。

東京のことを、思い出すかと思ったけれど、思い出さなかった。

しかし今は、思い出しても、とくに傷つかないような気もした。




【いい短歌があるので添えておきます】




短歌など、初めてまともに目で辿った。

中学の頃に、授業で触れたような気もしたけれど、大野はそのことをほとんど覚えていなかった。



【あるのとないのとでは、ずいぶん違いますから】



景色や香りの美しさを、ちゃんと分かる人だけが…ちゃんと、聡く雅に愛せる人たちだけが、

このような言葉で遊ぶのだと思っていた。



(ほんとだ、…ぜんぜん違う…)



言葉が、景色を連れてきた。香りを。


自分のとこにも、連れてきた…と


大野はくすぐられたような気持ちになった。




【うれし城の崎 身にしみじみと湯のかをり 都はなれた 湯の都】




みやこはなれた、湯のみやこ



と、その部分のリズムを、とくに気に入って

口に出して、言ってみたくなったけれど


指先で、とんとんと喉をノックしても、首元をするりと撫でても、大きく深呼吸をしてみても、喉から音が出ることはなかった。



それで、

大野は、声を出せなくなっていることを、ようやく、悲しく思うことができた。




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