79.故郷を ページ29
私たちが初めて会った場所。
草花が生い茂る、あの花野。
「そこで…メモ帳を落とした…とか?」
「よもや、そうかもしれぬ。
せっかくいただいた物なのに申し訳ないな」
「いえ、それは気にしなくて大丈夫です!
また新しいものを買いましょうか」
「ありがとう!しかし、自分で買うから問題ない!」
杏寿郎さんが現れたあの花野。
現代でメモ帳が消えたのも同じ場所。
大正時代で…
「いっ…た…」
思考を巡らせようとすると、
ズキンっと急激な頭痛に襲われた。
「Aさん!大丈夫か?」
何か分かりそうだったのに…
「だ…いじょうぶ…」
キーンっという高い音の耳鳴りが
彼の声を掻き消していく。
「い…」
目を開けているのが辛いほどの頭痛。
こんなこと今までなかった。
手から落ちたスプーンが音を立てて床に転がった。
薄く開いた瞼の隙間から
杏寿郎さんの心配そうな顔が見える。
必死に私の名前を呼んでくれているのは分かるが、
窓ガラスを何枚も挟んで会話しているような遠い声だ。
「Aさん?横になろうか」
私は小さく頷いて立ち上がろうとしたが、
あまりの痛みにすぐにしゃがみ込んでしまった。
「相当辛いのだな」
ふわりと身体が軽くなる感覚。
杏寿郎さんは私を抱えて寝室へと向かった。
「ごめんなさい」
「なぜ謝る?要らぬ心配だ」
彼は寝室のベッドへ私を下ろすと、
頭痛薬を探しに行くと言ってそばを離れようとした。
私は咄嗟に彼の服の裾を掴んだ。
「行かない…で…」
「ん?すぐに戻るぞ?」
「お願い…行かないで…」
離してしまえば、遠くへ行ってしまうような
そんな気がしてしまった。
「分かった。そばにいるから、安心して休むといい」
額に当てられた大きくてあたたかな手にほっとして、
いつの間にか眠りについてしまった。
◇
ぼんやりとした意識の中、
優しい歌声が耳を撫でた。
その歌は私の知らない歌で、明るい曲調なのに、
聞こえてくる歌詞は切なさを覚えるものだった。
「さらば故郷」と繰り返されるその歌を口ずさむ彼は
故郷を懐かしんでいるのだろうか。
頭のあたりに安心する温かさがある。
額を撫でてくれているのだ。
遠い弟を想っているのかもしれない。
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作者名:狐姫 | 作者ホームページ:https://mobile.twitter.com/kohime_yume
作成日時:2023年9月17日 0時