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眼鏡を外し、レンズを拭きながら文美は言った。そうすると、彼女の視界はほとんどの境界が溶け合ったものとなる。
「名前っていうのは、例えば……元、昇華隊員、みたいな？」
そうロスティスラーフがこわごわと言った瞬間、文美は椅子を蹴って立ち上がった。
「綾部ね」
「え？」
ロスティスラーフは驚いて彼女を見上げる。
「貴方に碌でもないことを吹き込んだ人間よ。貴方を落ち込ませた人間。――本当に、益のないことばかりするわね、あの男は」
「ええと、文美姉……」
取り落としかけた眼鏡をかけなおしながら、文美はロスティスラーフを見下ろす。眼鏡のブリッジが乗る鼻筋の上に、小さな皺が幾つも刻まれていた。
「気にするだけ無駄よ、あんな奴の言葉。無視でいい。『知りたい』で何でもやっていいと思ってる、消費者気取りの屑になんて、貴方が付き合ってやる義理なんてない。誰にもない」
「でも、おれ、史兄の言葉聞いて、そうかもって思うところもあったから……」
恐る恐るロスティスラーフが出した言葉を、文美は鼻で笑った。
「ええそうね。奴は確かに一見正しそうなことを言っているように見える。現実は常に厳しいものであり、故に厳しい言葉はより現実を射ているように見える」
けれど、と椅子に座り直し、彼の向こうにいる史を心底軽蔑する表情で言った。
「奴がやってるのはただの露悪よ。真理の追究でも何でもない」
だから付き合うだけ無駄。文美はばっさりと切り捨てた。
その直後、ローシャ、と奥から彼を呼ぶ声が聞こえた。ヴァイスの声だった。
「早く行ってあげたら？ 締めの作業はほとんど終わっているから、残りも妾がするわ。――スフォルツさんのことなんて、妾よりも、どころか綾部史よりも、誰よりも貴方の方が知っているはず。自信を持ちなさい。……他の人の言葉なんかより、貴方が自分の目で見て、自分の口から言葉にしたもののほうが、ずっと正しいのだから」
貴方がそう心掛けている限り、ね。
付け足すようにそう言った文美に促され、ロスティスラーフは奥へ下がらざるを得なかった。
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